カトマン沈遊記 かさこワールド カトマン沈遊記目次

・ストライキ
夜になって、やっと降り続いた雨が止み、賑やかな人通りの多いタメル本来の姿が戻ってきたが、
あちこちで奇妙な噂が飛びかっていた。それは明日のことについてだった。
雨が降って今日の予定を明日に延期していたにもかかわらず、
明日は何かあるので移動しないで宿でおとなしくしていた方がいいという話があちこちでささやかれていた。
同室の日本人Tさんが、ネパ−ルに1年住んでいるという日本人に話を聞いたところによると、
「明日は年に1回のデモの日で、あまり外に出歩かないほうがいい。
まあタメルの中だったら大丈夫だとは思うけど、遠出はしないほうがいい」というのである。

僕はみやげ屋で、どうしても欲しいと思ったネパールのムスタン地区の写真集をさんざん値引き交渉をしていて、
今日は買わずに明日行けばまた下がるのではないかと思い、「明日また来る」と言ったら、
「明日はだめだ。店は閉める。うちだけじゃなくてどこも店は閉まると思う」と言うのである。
不思議に思い、「なぜなんだ?」と問うと、奥の方からオ−ナ−が、
「いや、明日は問題ない。うちは店を開けるよ。大丈夫、うちの店には関係ない」とこれまた意味深なことをいう。

一体何なんだ。明日に一体何があるというのだろうか。
同室の日本人学生君もどこからか話を聞いてきたようで、
「明日はストライキみたいですよ。明日タイに行くの大丈夫かな。それが心配で」というのである。

明日何かがある。そんな噂をあちこちでいろんな人から聞き、
宿の主人に聞いたりレストランの人に聞いたり、ス−パ−で仲良くなったウッタム君に聞いたりするのだが、
今一状況がわからない。デモの日だとかストライキだとか、いや何もないとかいろいろなのである。
ただ聞いた話の大多数は、店はどこも閉まり、バスやタクシ−も走らず、
とにかくあまり外を出歩かないほうがいいということのようなのである。

誰に聞いても微妙に話が違う。本当のところはわからない。ただ何かあるぞということだけはわかる。
別に急ぐ予定があるわけではないので、これは明日も何もせずホテルで足止めだなと思う。
しかし学生君だけは飛行機のチケットを買ってあるだけに、予定は変更せず明日強行突破ということになった。
学生君はついにカトマンズ沈没生活脱出か…。何か同士が一人減ってしまうようで、とても寂しい感情を抱いた。
学生君のカトマンズ脱出を祝って、夜はとっておきのカトマンズ一番のうまいイタリア料理屋「ファイアー&アイス」に、
まさやんと学生君の3人で行き、どでかピザに超うまパスタにビールを頼んで、お別れ会を開いた。
もうこうやってカトマンズを去っていく人たちを僕は何度見送ったことだろうか。
そんな感慨もうまい料理の満腹感の前にはすっと忘れてしまい、またホテルに戻ってだらだらと飲み会を続けるのであった。

さてさていよいよ問題の日。昨日の雨は止み、暑い太陽が顔をのぞかせ、晴れて気持ちの良い日だった。
こんな日にどこへも動けないというのが悔しかった。
恨めしく昨日は雨を見ていたが、今度は恨めしく晴れた空を眺めていた。なんとも皮肉なことか。

朝8時過ぎ。僕はおそるおそる外に出てみることにした。
何かあってもタメルは安全だというから大丈夫だろう。
いや何かあるということがまだ信じられなかったので、この目で確かめてみようとホテルを出たのだ。
外に出ると、いつものタメルとは全く違っていた。
店は閉まっている。人通りは少ない。危険な感じはないが閑散としている。
いつものタメルではないということだけはわかる。デモとかストライキというより国民の休日といった感じだ。
東京の正月みたいにいつもは人でわんさかあふれかえっている場所に、誰も人がいない。そんな雰囲気なのである。

いつも行っている朝食を食べているレストランを見てみると、なんと表戸が完全に閉められていた。
今日はホテルの部屋でおとなしくしてなきゃいけないのだろうかと思ったが、
よく見てみると中庭に通じる脇道からレストランに入れて、しかも普通に店は営業しているではないか。
店に入っていつものモ−ニングセットを頼む。従業員の態度に特に変わった様子は見受けられない。
でもわざわざ表の戸を閉めて営業しているのだから、いつもとは何かが違うのだろう。
この店で僕の顔を覚えてくれた、会計をする「ゴリラ」君(ゴリラに似ているのでひそかに僕はこう呼んでいた)に、
今日は一体何があるんだってことを聞いてみた。

「マイオストストライキの日だ」
「マイオスト?」
僕は意味不明の単語の意味を尋ねると、紙に書いて説明してくれた。
「Maiost strike」
ストライキはわかるがマイオストというのがわからない。ゴリラ君は神妙な顔つきでいった。
「マオイストとはチャイナコミュニストのことだ」

そうか。中国共産主義者のストライキなのか。それなら何となく今日の状況がわかるような気もする。
確かに危険といえば危険なのかも知れず、明日は出歩くなとか、店は営業しないという人もいるし、
そんなに危険視せず普通に営業するという人もいれば、この店のようにその間を取るものもいるのだろう。
そうか、なるほど。中国共産主義か。
誰もが曖昧にストライキだとかデモだとか大丈夫だとか言っていたが、具体的な話を聞いたのははじめてだった。
漠然とだが今日の状況がわかったような気がした。

今日、このストライキの日に同室の学生君はタイに向けて出発する。
僕が外を見てきた様子では、タメルの細い通りにいつも邪魔なぐらい走り回っているリキシャ−の姿をほとんど見なかった。
これもストライキの影響なのだろう。
大通りの様子をわからないが、この分だとタクシ−やテンプも走っているかどうかわからない。
空港まで行く交通手段はあるのだろか。
カトマンズの空港はタメルから5kmほどの距離である。
歩けないこともないが、いつもとは違ったストライキの日に、町の外れの空港まで歩いていくのは危険に思われた。

ミニオムホテルのモナリザル−ムの一同は、学生君を送っていくために外に出た。
学生君が今日出発すると、モナリザル−ムは3人になる。また1人カトマンズを脱出していく。
ホテルから歩いて5分ほどの所に、タメルから大通りに出る場所があり、
そこには客待ちしているリキシャ−やらテンプ−やらタクシ−やらが大勢たむろしている。
しかし今日はストライキの日のため「危険」ということが理由なのか、客待ちしている連中はほとんどいなかった。
ひょっとすると1台もいないのではないかとも思ったが、さすがにそれはなかった。
この数の少なさがいつもとは違うということを改めて認識させた。
「よかった。とりあえず何台かいるじゃないですか。全くいないかと思いましたよ」と学生君が口を開いた。
「しかしこれだけしかいないんじゃあ、ふっかけてくんじゃないですか。」

空港までタクシ−の相場はだいたい150ルピ−前後。
空港に向う旅行者はそれを目安にネパ−ルルピ−を残しておく。
学生君は200ルピ−を空港までの移動代としてとっておいていた。
客待ちしている人も少なければ、歩いている人も少ない。
数少ない客が来たと思って、リキシャ−の男が僕らに声をかけてきた。

 「エアポ−ト?」
「イエス。ハウマッチ?」
「1000ルピ−」
「1000ルピ−?!」
と聞いて一同は思わず顔を見合わせて、大笑いした。
いくら何でも1000ルピ−はないだろう。寝ぼけるのもいい加減にしてくれと言った感じだ。
通常空港までふっかけてきたとしても300ルピ−とかそのぐらいが上限だろう。
親切な人も意外に多く、相場の150ルピ−と言ってくれる人もいる。
1000ルピ−とはふっかけるにも度が過ぎていたので、
冗談を言っているようにしか思えなかったので、思わず笑ってしまったのだ。

僕らに笑われてばつの悪そうなリキシャ−はそれでも反論した。
「今日はストライキでみんな休んでいる。だから高いんだ」
それにしても高すぎる。相手にせずに他を探そうと歩きだすと、
「わかった。500ルピ−にしよう」と言い出した。それを聞いてまた大笑い。
一挙に半分じゃないか。どうせふっかけるならこのぐらいから言えば良かったのに。
やっぱりさっきの1000ルピ−はいくら何でもおかしな話だった。
あわてて500ルピ−と言ってきた彼の態度にまた笑ってしまった。

当然それでも高すぎる。ただやはりストライキの日とあって、客待ちしている数が普段より極端に少ないので、
通常の相場では乗れそうもないことはわかった。これはえらいことになった。
学生君が残しているのは200ルピ−だけ。その金額で乗せてくれる乗物があるのだろうか。

試しに別のリキシャ−に声をかけてみた。すると返ってきた言葉は、「1000ルピ−」だった。
さっきははじめに声をかけてきたリキシャ−を笑ったが、今度は笑えなかった。
今日はそのぐらいの金額からはじまる相場になっているのだ。
ストライキということがあるために、異常な値段の釣り上がりようだ。

この値段では話にならないので4人で立ち止まってどうしたらいいか考えていた。
そうしたらさっき声をかけてきたリキシャ−がどんどん値を下げはじめたのである。
1000ルピ−が500ルピ−になり、さらに400ルピ−になり350ルピ−になり、
そしてついには250ルピ−まで下げてきた。
それまで無視していたがそこまで値段が下がってきたので交渉の余地ありと思ったのか、
学生君が財布を取り出し中身を見せて、
「僕は200ルピ−しか持っていないんだ」と言うと、なんとそれでOKだという話になった。
1000ルピ−が一挙に200ルピ−である。
ストライキのということで値段をあげていたが、乗る客も少ないので結局の所、
通常の相場とはそれほど変わらない値段にせざるを得ないのだろう。

しかしもうリキシャ−に乗って空港に行くという考えは学生君にはなかった。
いろいろ相談して、航空会社が運行している空港行きのバスに乗っていこうということにしたのだ。
そのバスが動いているかどうかはわからないが、もし動いていなければ飛行機だって動いているかわからない。
飛行機が大丈夫ならバスも動いているはずだという結論に達した。
ストライキという異常な事態の中で、リキシャ−やタクシ−に1人で乗るというもの不安があった。
1000ルピ−もふっかけてきたぐらいだから、
本当に200ルピ−で行ってくれるか疑わしいし、後でトラブルになっても困る。
それならば他の人も乗っているバスの方がいいのではということになったのだ。

200ルピ−で乗ってくれと言うリキシャ−を無視して、
バスの停まるロイヤルネパ−ル航空のオフィスまで歩いていった。
そこまでタメルから大通り沿いに10分ぐらいの所だ。
いつもはものすごい車の量でごったがえす大通りに車がほとんど通っていなかった。
クラクションの音もなく、排気ガスの煙もなく、
所狭しとぎっしりと道路に並ぶ車がない町の風景は、きれいだった。
しかしこのきれいさはストライキという事態のために現れた一時的なものに過ぎない。

その代わりに大通りの向うから軍隊の巡回が歩いてきた。それを見た途端に、緊張が走った。
何かにそなえて普段町では見ることのない軍隊が銃を持って巡回しているのには、
さすがにただことではない雰囲気を感じさせた。一体今日は何なんだろう。何か起こるのだろうか。
いつものカトマンズとは全く違う異様な雰囲気が、タメルを離れて大通りに出ると感じられた。

そんな町の中を歩いていって、ロイヤルネパ−ル航空のオフィスまで行く。
そこの警備員に空港行きのバスはあるかと聞くと、大通りで待っていれば来るという。
ほとんど車の走っていない大通りにバスが現れる姿を想像できなかったが、それを信じて待つことにした。
バスが来るか来ないかわからず、結構待たされることになるのではないかと思っていたが、
意外にも空港行きのバスはすぐに現れた。バスが少ないせいかいつもより混んでいて、
すぐ来たものの出発せずに、できるだけ客を乗せようと待っていた。

「気をつけて。日本で会いましょう」と、バスに乗り込む学生君に別れを告げた。
バスの中には機動隊員が乗り込んで、バスの警備にあたっているのには驚いた。
こんな物騒なカトマンズを見たことは一度もなかった。
バスはしばらくすると空港に向けて出発していった。僕ら残された3人はモナリザル−ムに帰っていた。

午前中はストライキを恐れて、ずっと部屋にこもっていたが、
午後になって時間がたつにつれ、いつもの町の賑わいが戻ってきた。
閉まっていた店は午後になると開き始め、人や車やリキシャ−もいつもと同じように狭い通りに湧き出てきた。
夕方には完全にいつものカトマンズの町の様子と変わりはなくなっていた。

一体午前中の異様な雰囲気は何だったのだろうか。
何があって、もうそれが終わったということなのだろうか。
昨日は雨で足止めされ、今日は昨日とはうってかわって晴れて天気が良かったにもかかわらず、足止めされた。
これで2日間、何もせずに時が過ぎ去っていった。

夜、Tさんのところへ、学生君からメ−ルが届いていた。
「あれから何事もなく空港に着き、タイにも無事到着しました」
今日は一体何の日だったのだろうか。
何の日だったかは謎のまま。しかし何事もなく終わったことを喜ぶべきなのだろう。

コラム1:現地にいる恐さ
特別なイベント事や緊急事態に直面した時というのは、
意外と現場にいる人間にはそれが何だったのかよくわからない時がある。
むしろ外にいる人間の方が状況を客観的に見ることができたりする。
このマオイストのゼネストにしてもそうだ。
日本の外務省の海外安全相談センターからは、僕が遭遇したゼネストについて1週間も前に、
インターネットでこう警告していたのだ。

ゼネストの実施
在ネパール日本国大使館によれば、ネパールでは来る1999年10月7日、
マオイスト・グループ(毛沢東主義過激派)の呼びかけでゼネストが全土で実施される予定です。
このマオイストの呼びかけにネパール市民がどの程度同調し、どの程度の規模になるか不明ですが、
当日は自動車交通の制約等があるほか、局所的には不測の事態も排除されません。
つきましては、10月7日及びその直前に首都カトマンズを始めネパールへ渡航される場合、
交通上の不都合(例えば空港から市街地への移動)や、
局部的に不測の事態に巻き込まれる可能性も排除されませんので、
当日及び直前からネパールへ渡航を予定している皆様は特にご留意下さい。
また、この間ネパールに滞在される際は、新聞、テレビ、ラジオ並びに宿泊ホテルや案内係や旅行代理店等より、
現地情勢に関わる情報収集を行い慎重に行動するようにして下さい。

日本では、はるか遠くのネパール情報ついて、
今回のマオイストのゼネストの正確な日程まで知らせているにもかかわらず、
カトマンズで2週間ほど滞在していた僕には、そんな情報は全く入ってこなかった。
それは僕だけでなく、出会った旅行者たちもそうであった。
前日になって、なんだかいろんな噂が広まって、明日はどこも休みらしいということだけはわかったが、
それがなぜなのかは、地元の人に聞いてもよくわからなかった。

「ストライキ」で出てきたように、ある店の一人の従業員は明日は休みだと言い、
もう一人の従業員はいや普通通り営業するという。
マオイストのゼネストに対する警戒度の違いなのかもしれないが、
そう聞いただけでは旅行者は何が起こっているかさっぱりわからない。

実際、ストライキの当日も、今日はどこも休みでお気に入りの朝定食を食べにいけないなと思ったが、
外に出てよくよくのぞいてみると、扉はしまっているが営業していたりする。
そこでやっと「今日はマオイストによるストライキなんだ」と情報を仕入れるのだ。

ストライキ当日はいつもとは全く違う雰囲気が漂っていたが、それも午前中で終わってしまうとなんてことはなかった。
しかしもし、自分が日本にいて先にこのような情報を入手していたら、
恐ろしく危険だからネパールに行くのをやめようと思っただろう。

逆に今から考えると、一歩間違えれば大変危険な状況の中に身を置いていたんだなと思う。
ストライキの当日に、サンダルでタイに行く友達を空港行きのバスまで送っていったなんて、
もし何かあったら逃げることすらできなかっただろう。
そういう現地にはまりこんでしまって客観的情報が見えない恐ろしさというのを感じた。

たとえば、去年、イスラエル市内で激しい銃撃戦があり、多数の死傷者が出て、
日本のマスコミでも大々的に報道されていた時に、イスラエルを旅行していた友達がいた。
(その友達は「ストライキ」の日に空港に向かってタイに行った彼なのだが)
僕から「大丈夫?」というメールを送る前に、彼からメールが来ていた。
「なんだかすぐ近くでドンパチやってるよ。ちょっとすごいよ。
でも大概銃声が聞こえるのは午前中から午後ぐらいまでで、
夕方ぐらいになると「そろそろ今日は終わりにしましょうか」みたいな雰囲気があって、終わる。
だから気をつけていれば大したことはない。それよりもイスラエルの物価が日本並に高くて困っている。
それでいてうまいものも食べれないし。今日は何を食べようかな」

日本から見れば、そんな銃撃戦の行われている真っ只中にいて、
すぐにでも退去しないと撃ち殺されるのではないかと切迫した状況を伝えられているのに、
現地にいる旅行者はいたってのんきなのだ。
多少の異変がある程度で、日常の旅にはほとんど影響を受けていないように思える。

今更ながら、僕はあんな特別な日に遭遇し、とりあえず何事もなく無事でよかったなと思った。

コラム2:マオイストとは?
〜なぜ、今、ネパ−ルでマオイスト(毛沢東主義者)の活動が活発なのか〜
たまたまカトマンズ沈没生活中に遭遇したマオイストによるゼネスト。
マオイストなるものが毛沢東主義を標榜した共産党の過激派グル−プだということがわかったが、釈然としない思いが残った。
なぜ、今、ネパールでマオイストによる活動が活発なのかがよくわからないのである。

<疑問点>
1.1989年ベルリンの壁崩壊、1991年ソ連邦の解体など、
世界的な流れからすれば共産主義勢力が衰えているにもかかわらず、
なぜ今になって、共産主義を標榜した過激派による活動が起きるのか。
イスラム原理主義の過激派による活動なら、昨今の時代的な流れからすれば理解できるのだが、一体なぜだろうか?

2.共産主義の崩壊後、急速な資本主義の導入・社会の変革でうまく政治経済がいっていない旧共産圏で、
古き良き時代に戻ろうと共産党の過激派が活動するのならわかるが、
なぜ今まで共産主義とは全く縁のなかったネパ−ルで活動が起きているのか。
今の時代にしかもネパ−ルで共産主義の過激派グル−プが活発な活動を行なっているということが、
どうにも実感としてわかなかった。
それとも僕が遭遇した出来事はマオイストによる活動ではなかったのではないかという気もしてきた。
そこでいろいろと調べた結果、この時期にしかもネパ−ルでマオイストが活発に活動をしている理由がわかった。

<1990年民主化とその結果>
現代のネパ−ル国内政治情勢で大きな出来事は1990年の民主化である。
1989年ベルリンの壁崩壊や中国の天安門など、世界的な民主化の潮流が高まった影響を受け、
ネパ−ルでも王政の続いている政治に対して民主化運動が活発化した。
1990年1月にネパ−ル・コングレクス党がカトマンズで大衆集会を開き、反体制・民主化を求める決意表明を行なった。
ネパ−ル・コングレクス党は統一左翼戦線とも連合し、ゼネスト・デモを通じて民主化運動を決行。
時代の流れに乗ってか、今まで崩せなかった、
60年代後半から続いた国王統治体制(パンチャ−ヤット体制)をわずか3ヵ月で崩壊させた。

主権在民、複数政党制を明記した新憲法が公布され、
絶対的な権力を握っていた国王は、国家および国民の象徴と位置づけられた。
翌年新憲法に基づき、総選挙が行なわれ、旧体制派の国民民主党は惨敗し、
民主化・立憲君主制を標榜するコングレス党が過半数を制した。
その後は、コングレクス党と統一共産党が交互に政権を担うような頻繁に変わる政治体制となっている。

やっとの思いで実現した民主化ではあったが、ある意味で民主化は近代化・都市化に他ならなかった。
経済的側面ばかりが強調され、都市への人口集中に伴い農村の疲弊が進行し、
今までなかった経済格差の問題が際立ってきた。
民主化による自由経済の恩恵を享受できずとり残された人々の反発が、1990年民主化の結果、浮上してきたのだ。

また、民主化に過度に期待していた人々の中には、1990年民主化以後の政治に疑問を投げ掛ける声もあった。
以前として一大勢力を保持している旧体制派。
議会制民主主義の形骸化、国内経済の低迷など1990年民主化の成果を疑問視する声があがってきたのだ。

そういった背景をもとに、1995年頃からネパ−ル中西部を中心に、
議会制民主主義の否定・王政の廃止・社会主義的経済社会の構築をめざし、
毛沢東主義を掲げた共産党一部過激派(マオイスト)の活動が起こるようになった。
1990年民主化の結果起きた問題点を解決できる理想的な思想として、広まっていった。

国内情勢の矛盾が進行するにつれ、マオイストの活動はさらに活発化するに至っている。
以前として遅々として進まぬ議会制民主主義に苛立ちを覚えた勢力が、
過激な思想と行動を持って国内政治の改革に乗り出そうと、活動を活発化させているのである。

今、なぜネパ−ルでマオイストの活動が活発化しているか。
それは1990年民主化以降の政治情勢を考えると、ある意味では必然的に立ちあらわれたとさえいえる。