ミスチル最盛期ドキュメンタリー本「es」  ミスチルトップ かさこワールド

バンド結成15周年を迎え、3月に発売されたアルバム「HOME」が、
2007年初となるミリオンセラー(100万枚)となるなど、
圧倒的な人気と実力を誇るミスチルだが、
彼らの“最盛期”というか大ブレイクした時期の、
ドキュメンタリー本がある。
「es(エス)―Mr.Children in 370 DAYS」だ。

本の存在は知っていたが、今まで読んだことはなかった。
先日、メリログの涼さんの家でたまたまこの本を発見し、
ちらっとのぞくと、今、見ると、ミスチルファンにはたまらない、
ヒット秘話やら作曲秘話が書かれているではないか!
ひょっとして随分前の本だから、
かえって値段にプレミアがついていないか心配していたのだが、
なんとアマゾンでは290円の中古品がずらり。
すぐさま私は購入し、本が届くとあまりのおもしろさに、
貪るように読んだのであった。

「HOME」という“これまでにないあたたかな”アルバムを出して、
ある意味、2回目の最盛期を迎えている今、「HOME」とは最も対極にあり、
そして彼らのアルバムで最も売れた(なんと343.3万枚!)、
「Atomic Heart」の1994.9.1発売時期を中心とした彼らの舞台裏を、
この本でのぞいてみると、そこにはすさまじいまでのエネルギーが満ち溢れ、
驚くべきドラマがあり、今、振り返るからこそおもしろい事実があふれていた。

初期ミスチルの甘く優しい音楽を吹き飛ばし、
桜井氏自身の奥底にあった沸々とした煮えたぎる野望や欲望を、
一挙に解放することで、大ブレイクのきっかけとなり、
一皮も二皮も向けて大きな飛躍というか変身を遂げた、
J-POP史に残るモンスターアルバム「Atomic Heart」。
その全貌は実に興味深いので、本の内容を抜粋して紹介したい。

・「CROSS ROAD」の一発屋で終わりたくない

このドキュメンタリーは1994.2.15〜1995.2.20の370日間。
そこそこのバンドでしかなかったミスチルが、
1993.11に「CROSS ROAD」を発売し、ブレイクのきっかけをつかんだ。
「CROSS ROAD」は一度もチャートで1位を獲得していないにもかかわらず、
ロングセラーを続け、発売22週目で100万枚セールスを突破するという、
この時代には珍しい売れ方をしていた。

こうしたじわじわロングヒットは確かに素晴らしい評価のされ方ではあるが、
メディア的なインパクトはない。
100万枚を突破したとはいえ、もっと売れたい、一発屋で終わりたくないという、
ギラギラした想いがミスチルにはあった。
そこでこのドキュメンタリーは、
彼らが一発屋で終わるかどうかの命運を左右する、
次のシングルのミーティング(都内ヒルトン・ホテルのスイートルーム!)から、
はじまるのだ。

・初期ミスチルからの大いなる脱皮、Innocent World誕生秘話
スイートルームにこもり、曲作りの様子が紹介されている。
桜井が部屋にこもって曲を描き、それをプロデューサーの小林武史がチェックし、
そこでもまれてまた桜井が部屋にこもって作り直す。
そんな作業風景が描かれている。

「Innocent World」の原型となる曲はできたが、歌詞で悩んだという。
(ちなみに大いなる誤解をしている人も多いと思うが、
ミスチルの曲はすべて作曲が先、歌詞は後である)
レベルの高い詞ではあったが、以前のミスチルを踏襲したものに過ぎないというのだ。
そこで小林武史がいう。
「桜井の中の道化の部分も含め、桜井じゃなきゃ書けない、
今、桜井和寿が歌うからこそ意味があるような、
そうした世界まで、気持ちを開いていく詞ではないと駄目だ!」

いわば、ダメだしである。
追い詰められ、悩み桜井。
ところが、その日の夜、
ホテルから帰る途中、詞がぱっと思い浮かんだのだ。
(この話はテレビ番組やインタビューなどでもよく語られている)

それが、レコード大賞の大賞受賞することになる「Innocent World」の詞の原型となったのだ。
それが、ミスチルをモンスターバンドへと転換させる大いなる分岐点となった。
初期ミスチルのわりとどこにでもある、甘く切ない優しい詞から、
「コマーシャルのための曲なのに、こんなに個人的なことを歌ってもいいのかな」
と作った桜井すら悩んだ、個人的な詞の世界。
ところが、その大いなる転換こそが、
バブル崩壊後の倦怠感・閉塞感漂う現代日本社会に住む、
同時代の若者の心を捉え「等身大ソング」という名のミスチル現象を生む契機となったのだ。
ちなみに、この本に桜井自筆の詞の創作ノートが載っているが、
なんとはじめは「イノセントワールド」ではなく「イノセントブルー」だった。

・小粒な名品群から「肉体の存在感」あるアルバムへの変貌
地位を不動のものにし、ブレイクをものにするには、
「CROSS ROAD」「Innocent World」というシングルに続き、
圧倒的な存在感あるアルバムを制作することだった。
上記2つの名作はできた。
「クラスメイト」「Over」の2曲もすでにあったが、小林武史は悩む。
「これでは今までのミスチル路線を受け継ぐ“小品タイプ”のものしかない」

ミスチルファンはご存知だと思うが、「Over」もシングルに匹敵するほどの名作である。
しかしこの時、彼らはそれだけでは満足できなかった。
“今までのミスチル”だけで大ブレイクすることは難しいと、
どこかで限界を感じていたのかもしれない。
「CROSS ROAD」が売れたからこそ、このチャンスを確実にものにしたい。
そのためには大いなる変身、飛躍を遂げねばならない。
その言葉から「Round About〜孤独の肖像〜」「ジェラシー」が生まれたが、
さらにもう一歩……。
そこで小林武史は閃いた。
アルバムのオープニングは「“ジャガジャガジャ〜ガ、ダン”でいこう」と。
その着想から桜井が作ったのが、これまでのミスチルにはまったくといってない、
今でいうなら「勝手に体が動いてしまう」という、
「ストレンジカメレオン」や「フェイク」を思い起こさせる、
現代の虚飾をまとったロックスター的“狂騒曲”「Dance Dance Dance」が生まれるのである。

さらにこの後、アルバム制作に取り掛かっていく中で、
「まだ物足りない」「まだ以前のミスチル」というトラウマから、
もう1つ何かインパクトのあるものとして生まれたのが、
「Dance Dance Dance」に続く“狂騒曲”「ラヴコネクション」だ。

こうしてポップ的なるものからロック的なるものまで、
多様な仮面を、見事なまでのグラデーションを見せつけたアルバム、
「Atomic Heart」が完成したのだ。
このアルバムは343.3万枚売り上げ、今でもミスチルで最も売れたアルバム堂々1位なのだ。

ちなみに、アルバム制作終盤、「Round About〜孤独の肖像〜」の歌詞で煮詰まっていた桜井が、
気分転換のため、黒縁メガネで変装し、渋谷の街を徘徊し、
Tバックでミニスカートの大胆な女の子の姿を見て、
歌詞が進んだという。
この頃から、ミスチルの歌詞に、病める現代社会が映し出されるようになったのだ。

さて、アルバムができたが、以前のミスチル的雰囲気とは違う、
“実験的”曲があまりに多いことから、レコード会社は渋ったという。
「この10曲では実験的すぎるのでは?」
「『星になれたら』みたいなタイプの曲が、もうすこし増えないだろうか」
もしこの既成概念に捉われ、守りに入ったアドバイスを受け入れてアルバムを出していたら、
今後のミスチルの展開は大きく変わったかもしれない。
つまり「やっぱり代わり映えのしない、そこそこいい曲あるそれなりのバンド」と。
しかしここでこうした「真っ当な」意見を聞かず、
小林武史がごり押ししてこの10曲でいったことが、
これほどの成功を生んだのである。

・ライブ成功してはじめてブレイク
今でこそ信じられない話だが、この本によると、
当時のミスチルの評価は「レコードはいいけど、ライブはちょっとさぁ・・・」
だったという。
「いいライブをやらなければ、トップアーティストにはなれない」
そんな想いで彼らは、アルバム「Atomic Heart」を引っさげ、
これまでとは違ったパワーアップしたライブを行うための試行錯誤がはじまるのだった。

そして2つのライブツアーが企画される。
映像に頼らずライブ・パフォーマンスで勝負する「TOUR Innocent World」と、
演奏とテクノロジーを融合し、映像を多用した「TOUR Atomic Heart」を。

夏のライブイベントに参加する傍ら、
ツアーのリハーサルにも忙殺される中、
ミスチルの不動の地位を確立するさらなる名曲が、
なんとたった3時間で完成する。
「Tomorrow never knows」である。

メジャー調の名曲バラードを桜井が小林武史に、
ライブイベント宿泊先の名古屋のホテルで聴かせる。
しかし、ここでも小林武史からダメだしが出る。
「ちょっと違うなぁ」
「桜井さ、自分を突き放して、俯瞰で見て、
そこに人間的な痛みを感じて欲しいんだ。
痛みを感情的に歌うんじゃなく、突き放して、そこに出口を見つけるんだよ」

30分ほどして桜井が小林武史の部屋に戻る。
その時、偶然にも桜井の紡ぎだしたメロディと、
小林武史の考えていたコードがぴたりと乗っかってしまった。
こうして名曲「Tomorrow never knows」が生まれた。

・回想:名プロデューサーによって生まれたミスターチルドレン

この頃、ミスチル(特に桜井)と小林武史の不仲説なるものが結構噂されていた。
私も当時は舞台裏のプロデューサー仕事を知らないので、
なんとなく桜井氏に加担する気持ちが大きく、
「なんだよ、プロデューサーって偉そうに。小林武史なんていらないんじゃないか。
バンド活動に不協和音をもたらすなら」なんて思っていたが、
それはある意味ではまったくの間違った考えだったかもしれない。

ミスチルというバンドが世に認められ、大ブレイクしたシングル、アルバム制作に、
この本を読めばわかるが、実に深く小林武史が関わっている。
まさに彼らとひざをつけあわせ、同じメシをくい、
彼らが売れるためにはどうしたらいいかを必死で考え、
時に鬼のようにダメだしを出す。

でもそのおかげで、一皮も二皮も向けた名曲が生まれている。
小林武史の存在なしには、ミスチルのブレイクはなかったんだろうなと。

ただその時は互いにしんどかっただろう。
特に桜井は。
ツアー、ライブイベント、アルバム制作、シングル制作などをこなしながら、
ちょうどその頃、長女が生まれ、まさに多忙な毎日を過ごしていて、
そんな“極限状態”の中で、一発屋にならないために、
次なる名曲作りの使命を1人背負っていた。
彼から名曲の素が生まれでない限り、バンドの発展はあり得ないのだから。

だから、彼らは活動を突如、休止したんだなと思った。
私はあんなにノリにノっている彼らが突如、活動休止するとは思いもよらなかった。
「HOME」発売前の別冊カドカワのミスチル特集で、
小林武史が「ほんと彼らはあの頃、ボロボロだった」という言葉が、
この本を読んでよくわかった。
短い期間の中で、数多くのスケジュールをこなしながら、
作詞作曲し、そしてダメだしされ、また創作をやり直すという、実に苦しい作業。
でもこうした“詰め込み”時期があったからこそ、
ミスチルは大いなる飛躍を遂げたんだと思う。

“仕事”の飛躍的成長には、必ずこうした“詰め込み”時期が必要だ。
時間がない多忙な中、次から次へと圧倒的“量”を伴った様々な課題をこなしていく。
こうした苦しい経験を経て、
人は仕事量をこなす力とともに、それを質に転化させる基礎をつみ、
圧倒的なスピード力をつけ、“人間離れ”したような名作を次々と生み出す。
まさにミスチルは、チャンスをつかんだこの時期に、
脂ののった名プロデューサーと出会い、徹底して“詰め込み”されたおかげで、
バンドとしての基礎力をつけたに違いない。

<ツアーの合間に生まれた「everybody goes」>
映像に頼らずライブ・パフォーマンスで勝負する「TOUR Innocent World」と、
演奏とテクノロジーを融合し、映像を多用した「TOUR Atomic Heart」。
2つのツアーをこなしながらも、
ドキュメンタリー本を読むと、その合間を縫って曲作りをしているからすごい。

1994.9.27
ツアー最中にもかかわらず、
小林武史と桜井は「コンサートで映える曲を作ろう」と、曲作りを行う。
それが、ミスチルのイメージを一新させた、
「everybody goes」へと結実するのだが、
この時点では、「Tomorrow never knows」のB面候補にしか過ぎなかった。

ところがあまりのデキの良さに、B面にするのはもったいないという話になり、
「Tomorrow never knows」に続くシングルになることが決定した。
曲に着手してからわずか5日後のことだ。

しかし翌日、小林武史が躊躇する。
「あの曲、本当にシングルにしてもいいと思うか?」
そりゃそうである。
「CROSS ROAD」「Innocent World」と爽やかで誠実な感じの曲から一転。
売れ始めたばかりのせっかくの良いイメージを、
180度叩き壊しかねない曲だからだ。
しかし予定通り、シングルとして発売される。
大げさな言い方かもしれないが、
いくらでもある単なる「爽やか」バンドではなく、
欲望や現代社会をストレートに歌い上げる「everybody goes」のような曲を、
ブレイクしている真っ最中に出したからこそ、
幅広いファン層、一過性ではなく飽きられないバンド、
そして長らく続くJPOPの不動の人気の地位を獲得できたのかもしれない。
中には「初期のミスチルの曲の方がいい」というファンもいたかもしれないが。

この曲は、翌年から行われる「TOUR Atomic Heart」で、
「メインストリートに行こうよ」に代わる、
コンサートの切り札的存在へと昇華する。
その後も「everybody goes」は、コンサートのここぞという場面で、
演奏されたのは言うまでもない。
「ミスチルってコンサート盛り上がるの?なんかラブソングばっかの印象があるから」
といったある友人がいったが、
「everybody goes」を筆頭に盛り上がる曲は目白押しである。
それがまさにミスチルの魅力の強みなんだと思う。
単に「愛してる」「好きだ」っていう単純なラブソングだけじゃないところが。

<映画『es』へと結実>
11.10に「Tomorrow never knows」をリリース後、
「Tomorrow never knows」の名作プロモーション、
崖の上に立つ桜井の有名シーンが、
11.17〜23にオーストラリアで撮影される。
そして映画『es』の撮影も行われた。
単なるコンサートツアービデオではないものを作るということから、
映画として両ツアーやオーストラリアでの撮影を交えた、
ドキュメンタリー映画構想が小林武史の中にあったからだ。

1994.12.31には、「ミスチル現象」をさらに決定づけるように、
日本レコード大賞・大賞受賞。しかも前代未聞の欠席。

そして「TOUR Atomic Heart」中に、
両ツアーの共通テーマとなっている「es」のテーマソングに着手する。
コンサートと曲作り、そしてレコーディングまで詰め込み、
ミスチルの加速力が生まれたに違いない。
この頃、JPOPシーンはCDの売上もよかったが、
一発野郎が多かった時代。
ミスチルだって一歩間違えればそうならないとも限らない。
そんな中、ツアーをやりながら名曲を量産し、
一気に浸透させた彼らの瞬発力は、
プロデューサー小林武史、そして曲作りを行う桜井の、
二人三脚によって成し遂げられた様子が、
この本を読むとよくわかる。

2つのコンサートを1つのライブビデオに、それが映画『es』。
ドキュメンタリー本を読み終えた後、
映画『es』のビデオを久しぶりに見返そうと思った。
アルバム「HOME」を引っさげ、
「HOME」ツアーを行っている15周年のミスチルの歴史を振り返ってみると、
今のミスチルがまた輝いてみえる。