冬のシルクロード 「冬のシルクロード」の写真のリンク
  
・1999年12月6日・20日目・タシケント
朝7時、カザフスタンとウズベキスタンの国境に到着。
バスの運転手が、ロシア語の話せない僕を気遣って、「この人についていきな」と、
乗客の一人である、娼婦らしき派手派手しい服装をした若い女性を紹介してくれた。

その女性は英語も話せたので、一緒に国境を越えることになった。しかし税関で捕まった。
僕だけ個室に連れていかれ、外貨申告額と実際の持参額が正しいかどうか、執拗に現金を数え上げた挙げ句、
「100ドルよこせ」と、国境の審査員は言った。
「冗談じゃない」と外に声が聞こえるようわめきちらしたが、かといって騒ぎすぎて国境を越えられなくなっても困る。
延々騒いだ挙げ句、これ以上やるとまずいかなと思い、泣く泣く15ドル渡して手を打つ。

国境を抜け、首都タシケントまで車で20分。とにかく時間と手間のかかるビザ申請を優先するため、まずイラン大使館に行く。
ビザが取れるのは1週間後。
その後、その女性「ユネラ」さんと昼食を取る。
昼食を当然のように奢ってくれた後、「ホテルは決まっているのか?」と聞かれ、これから安い宿を探すと答えると、
ユネラさんは「安宿には『バッドガ−ル』がいるから良くない。よかったらうちに泊まらない?」と言った。
ウズベキスタン人の普通の人の家に泊まるチャンスに恵まれるなんて、なんて幸運なんだと思ったが、
よくよく考えて、やっぱり彼女の家に泊まるのはやめにした。

昼食時に、彼女がずっと不安そうに何度もどこかに電話をかけていたこと。
彼女の家に両親や子供など他の家族がいれば泊まったが、彼女一人でしか住んでいないこと。
多額のドルの現金を持っていて、彼女も一緒に国境を越えたのでそれを知っていること。
ウズベキスタンでは宿泊するホテルで宿泊証みたいなものを発行され、
民家に泊まった場合はそれがないため、見つかったら「違法」とされて、多分、多額の罰金を取られること。

この上もない出会いだった。トラベルライターならここで泊まるべきだとも思った。
しかし若い女性が一人住まいの家に、一介の見知らぬ旅人を泊めようという言葉に、逆に警戒してしまった。
彼女はきっと好意で泊めてくれるのだとは思うが、
所詮、日本人旅行者は多額の金を持ち歩いた格好のカモであるということも忘れてはならない。
僕はユネラさんにいろいろ言い訳をしてその場を去っていった。

旅で難しいことは、出会った人を信じるか信じないかの判断。
彼女の家に泊まらないという判断が正しかったのかはわからないが、
自分のその時感じた嗅覚みたいなものを、信じるしかない。
ユネラさん、いろいろ親切にしてくれてありがとう。

・1999年12月7日・21日目・サマルカンド
イランのビザが取れるまで、ウズベキスタン国内観光をする。
今日は、284km離れたかつてのシルクロ−ドの中心都市、青の都サマルカンドへバスで行く。
10時にタシケントを出発し、途中はモンゴルチックな草原や山が広がる景色を抜けて、
サマルカンドに16時に到着。
タシケントにしてもサマルカンドにしても近代的なヨ−ロッパの町の雰囲気だ。

ウズベキスタンのバザ−ルにはキムチが売っていると、ガイドブックに書かれているのを見て、
「キムチが食いてえ〜」と必死になって探しにいった。
残念ながらホテルの近くのバザ−ルにキムチはなかったが、なんとみかんがあった。
みかんが20個ぐらいで800ソム(約110円)。
まさかウズベキスタンで日本と同じようなみかんが食えるとは思いもしなかった。
味も申し分なく、日本のみかんの味そっくりだった。

ホテルは町の中心にあり、洒落たきれいな建物で、バス・トイレ・朝食付きで1泊5500ソム(約800円)と格安だった。
ウズベキスタンは物価はインド並に安く、それでいて町の雰囲気はヨーロッパという不思議な世界だった。

・1999年12月8日・22日目・サマルカンド
今日はサマルカンドを観光する。
一番の見所、レギスタン広場に行くと、眼前に3棟の巨大なモスクが立ち並んでいる。
よくもまあ、こんな美しくかつ巨大なものを作ったと感心する。
この建物を見ると、ヨ−ロッパでもアジアでもなく、かといって中近東でもない、
いろんな文化が交じりあったシルクロ−ドの要衝地ならではの雰囲気が感じられる。

昼はラグマンといううどんを食べるが、これが実にうまい。
というかウズベキスタンで知っている料理名は、ラグマンかシャシリクしかないのだ。
ちょっと辛めで具がいっぱい入っている温かいうどんで、寒い冬にはもってこい。

広場の近くのバザ−ルをのぞくと、なんとビニ−ル袋に詰まったキムチを発見した。
ホテルに帰って食べてみたが、どうも水っぽくてうまくなかった。

またホテルの近くのバザ−ルに行ってみかんを買いこみ、食べまくった。
ウズベキスタンの冬の食生活は、ラグマンとみかんに支えれているようだ。

・1999年12月9日・23日目・ブハラ
今日はサマルカンドから西273kmのブハラへ行く。
バスタ−ミナルに行くが、バスがないと言われ途方に暮れた。

その辺をうろうろしていると、通り掛かりのタクシ−が、「ブハラまで行ってやる」と声を掛けてきた。
冗談じゃない。こんな長距離をタクシ−で行ったら、一体いくら取られるかわかったもんじゃないと思ったが、
ちょっと待てよと聞いてみると、8000ソム(約1200円)で行くという。
意外に安かったしバスがないので、タクシ−でブハラに行くことにした。

西に従うにつれ、緑がなくなり都市がなくなり乾燥地帯へ突入する。
ブハラには夜18時到着。
ホテルを探す気力がなく、タクシーから降ろされたすぐ近くの洒落たペンション風の宿に決めた。
25ドルと聞いて飛びあがるほど驚いたが、面倒臭いのでそこにしてしまった。
トイレもバスもテレビも、そして朝食もついている、きれいな金持ち西洋人旅行者向けの宿なのだろう。
現地通貨ソムで払うより、ドルのキャッシュが欲しいという。
元ソ連邦だというのに、今やかつての敵国アメリカの通貨が威力を発するなんて、なんかわびしいよなあ。
夕食は近くのド−ム型の食堂でシャシリクを食べたが、実にうまかった。

・1999年12月10日・24日目・ウルゲンジ
午前中はブハラの町を見て回る。
巨大なモスクが立ち並ぶ町。巨大な絨毯バザ−ルがある町。
町並み自体が古いまま残っているので、中央アジア的雰囲気が濃厚に漂っていた。
中世の町並みを迷路のようにまわり、壮大なモスクを中心に見終えたあと、
次ぎなる目的地ウルゲンジに向うことにする。

バスタ−ミナルは閑散としていた。
昨日のことがあるのでタクシ−も使えるなと思い、通り掛かりの車を捕まえた。
ウルゲンジは隣国トルクメニスタンの国境近くで、ブハラから450kmも離れている。
タクシーの運転手と交渉の末、25ドルで手を打った。

完全なる乾燥地帯を駆け抜け、途中、トルクメニスタンの領地を100mほど入ったりして、
18時にウルゲンジに辿り着いた。
夕食はいつものごとくラグマン(270ソム=約40円)。やっぱりウズベキはラグマンに限る。
さずがに甘いものが食べたくなり、近くの店で1枚500ソム(約75円)のキットカットを買った。
ウズベキスタン首都タシケントから1000km西まで来た。

・1999年12月11日・25日目・ヒヴァ
今日はウルゲンジから50km離れたヒヴァの町に観光に行く。
町そのものが世界遺産という博物館都市ヒヴァ。町に入るのに入場料を払う。
そういえばネパ−ルのバクタプルも、古い町並みがそのまま残っていて町の入場料を取る。

ヒヴァの町に入ると、まるで何百年も前にタイムスリップしたかのように思える。
黄土色の日干しレンガ作りで、ド−ム型の建物が立ち並ぶ。
中に入ると天井が高くひんやりとしていて、ド−ムの天井から光が差し込んでいる。
どこからかイスラムの祈りが聞こえてくるような錯覚に捉われる。
時が止まったままの町が、世界にはあるのだなと思う。

予定より1日早いが強行して、今日はウルゲンジから首都タシケント行きの夜行バスに乗ることにした。
タシケントまで1000kmというとんでもない長いバスの旅。
中国のゴムルドからチベット・ラサまでの約1200kmに次ぐ長距離バスの旅。
16時にウルゲンジを出発した。

・1999年12月12日・26日目・タシケント
24時間にも及ぶバスでの長旅はしんどかった。
だが、周囲の乗客との思い出は忘れられないものとなった。

食事に立ち寄った食堂では、シャシリクにラグマンを一緒に食べ、しまいにはおごってくれた。
僕は申し訳ないので払うといったが、おごってくれたグラファエルさんはこう言った。
「ここはウズベキスタンだ。だから私があなたをもてなすのは当然だ」

すごく説得力のある、印象に残ったありがたい言葉だった。
もし彼らが日本に来るようなことがあったら、そのおかえしをしたい。
きっとそんな機会はないのだろうけれど・・・。

夜、暗闇の砂漠地帯を走る中で、バスの運転手が急ににぎやかな音楽のテ−プを流すと、
乗客の一人が走っているバスの中で音楽に合わせて踊りだした。
そのうちみんながバスの狭い通路で陽気に踊りだした。
このしんどいバスの長旅に、この人たちはなんて陽気なんだろうか。
旅の中でも忘れられない一夜になるとともに、ふと「もうこれで僕の旅も終わりかな」と思った。

16時タシケント着。ちょうど1週間してタシケントに戻ってきた。

・1999年12月13日・27日目・タシケント
今日は月曜日。申請しているイランビザ受け取りの日だ。
イランビザを取ったらすぐ今度はトルクメニスタンのトランジットビザを取り、
トルクメニスタン・イラン・トルコと移動を開始しようと思っていた。
予定ではクリスマスには日本に帰れるのではないか。

イラン大使館に行って待たされること1時間。自分が呼ばれたと思ったら、ビザはまだだという。
「1週間後と言ったじゃないか!」といっても相手にしてくれない。
ぶつぶつ文句を言っているとどこかに電話をかけて、その人と話してみろという。
電話に出ると一方的に早口でわけのわからないことを言って切られてしまう。
窓口に問いただすと、「1週間後に来い」という。先週も同じことを言われて、また1週間。
しかも取れるかどうかわからない。
僕は窓口に「ふざけんな、イランなんていらんのだ」といって、ドアを蹴って出ていった。

タシケントの洒落たピザ屋に入り、これからどうしようか考えた。
ウズベキスタン観光を済ませてしまった僕に、取れるかわからないイランビザのために1週間も待つことなどできない。
世界地図を広げて次の進路を考える。ウズベキスタンと国境を接している国は5つ。
北はカザフスタンで、この前にトランジットで入っているから無理。
東3国は、日本人技師の誘拐のあったキルギスに、いまだゲリラが絶えないアフガニスタン、タジキスタンで危ない。
南のトルクメニスタンはインビテ−ションがなければビザは取れない。
また進路がふさがってしまった・・・

いろいろ考えた末に、ゴール予定地のトルコに飛行機で行くしか選択肢はあるまいと思った。
予定より1週間近く早くトルコに着いてしまうのなら、その代わりにどこかに行くのも手だ。
そうと決めるとあわてて旅行会社に行き、トルコ行きのエアチケットを取った。
トルコまで250ドル。明日深夜にウズベキスタンを出発する。

・1999年12月14日・28日目・タシケント
もうウズベキスタンともおさらばだ。
日本に帰るのは、予定よりかなり早くなるだろう。
僕はホテルの近くのバザ−ルに行って、1本300ソム(50円)のネクタイを買った。
日本に帰るということは、また就職活動をしなくてはならないから・・・。

今日深夜出発なので、昼はタシケントの町をぶらつく。
完全に近代化された都市で見るべきところはない。
地下鉄に試しに乗ってみたが、駅がきれいなのに驚いた。
どの駅も内装に凝っていて、まるで博物館か美術館のようだった。
地下鉄は一律25ソム(5円)
夕食に中央アジア圏でお世話になったラグマンを食べ収めして、空港に向った。

夜中2時、搭乗手続きをして、4時タシケントを出発。
ゴ−ル・トルコ・イスタンブ−ル到着はたったの2時間後。