中国・江南の水郷村の旅 かさこワールド

水郷村1・西塘  西塘写真
水郷村2・周庄  周庄写真
水郷村3・同里 同里写真
水郷村4・角直  角直写真

・序:水郷村とは

 中国の江南地方、上海郊外周辺には、
 水路を中心とした古い街並みが残る水郷村が数多く残されている。
 江南地方は湖沼が多く、上海北には長江(揚子江)が流れ、
 「東洋のベニス」こと蘇州には太湖があり、
 その周辺に流れ込んだ水をうまく利用し、水路を整備したことから町の発展がはじまる。
 歴史は11〜14世紀頃につくられた町が多く、
 昔ながらの面影を残した水郷村が近年、観光スポットとしても注目されている。

 ノスタルジックな風景が残る「古き良き中国」の、
 まるで掛け軸の絵にもなりそうなその街並みの美しさに惹かれ、
 外国人だけでなく中国人観光客など、多くの人が訪れるようになっている。
 上海から車で1〜2時間前後で各水郷村へ行けることから、
 上海観光のついでの日帰りツアーとして人気を集め、

また旅遊バスも出るようになったことから、近年になって観光客が増え始めている。

とはいえ、まだまだ交通アクセスが不便なこともあり、大型高級ホテルが少ないことなどもあってか、
そのほとんどが日帰り旅行であり、それほど観光地化されていず、
生活感あふれる暮らしぶりもまた大きな魅力の1つである。

そんなわけで上海というコンクリートジャングルにまったく興味のない私は、
上海を単なる通過点として通りすぎ、郊外にある水郷村巡りの旅をしてみたいと思った。
西塘、周庄、同里、角直という4つの水郷村を駆け足ではあったが、
上海からの日帰りではなく、現地に泊まって、その街並みと雰囲気に浸ってきた。
(下記、写真はすべて西塘の写真)


水郷村が観光地化が徐々に進んでいるとはいえ、
まだまだ「暮らしの場」であることが行ってみるとよくわかる。
入り組んだ水路が彼らのすべての生活の中心であり、
ここで洗濯をしたり、野菜を洗ったりする光景をよく見掛ける。

また、いるのかどうかはわからんが、
(見ての通り、生活用水としての水路なので、水はきれいとは言い難い)
魚を網でとる姿もよく見掛ける。
ちなみにどこの水郷村にあるレストランでも名物料理として魚が多いが、
一般料理に比べて非常に高い(1匹40元(600円)〜)こともあり、
到底ここでとれた魚がうまいとも思えず、あまり食べなかった。
(1回、魚料理を食べたが、豊富な魚料理に慣れ親しんでいる日本人からすると、別に驚くほどのうまさを感じるわけではない)


入り組んだ水路をつなぐのは石橋である。
石橋と古い街並みと水路という風景がなんとも趣き深いわけであるが、
いつ落ちてもおかしくないのではないかと思えるほど、
しっかりしたつくりとはいいがたく、橋にのぼって下をのぞくと、橋の隙間から川を眺めることができる。
ここに歩行者以外に、自転車は通るし、リヤカーも通るので、かなりな負担はかかっているに違いない。

また、各家の前には石段があって川に降りれるようになっている。
洗濯したり、野菜を洗ったりするためである。
観光地用につくられたわけではなく、今でも水路を使って生きていく人々がいることがわかる。


水路沿いから1本入ると、石畳の道に狭い路地に家がひしめいている。
今ではどこの店もほとんどが観光客向けのお店が多く、
おみやげや、茶館、レストラン、雑貨店などが軒を連ねている。
また町の発展に寄与した貴族の館のようなものもあり、中を見学することができる。
観光地化が進んでいるとはいえ、まるで時代劇のような舞台をそぞを歩きするのはとっても楽しい。

このような古い水郷村のすぐ近くには、新しく作られた今風の町も必ずあるといっていい。(写真右)
中国の典型的な小さな町が建設されていて、
ここに車やバスが行き来したり、多少のホテルがあったり、スーパーマーケットがあったりするので、
観光するには便利といえば便利である。
このような新しい町と古い町とはしっかり分けられているので、
新しい町があるからといって古い町の雰囲気が台無しになるようなことはない。
基本的に古い街並みエリアに入るには、
観光客は入口の門で入園料のようなチケットを買わなくてはいけない。

ただ非常におもしろいのは、古い街並みの方が観光地化が進み、
新しい街並みの方が生活感があるという逆転現象も見受けられる。
古い家を利用してレストランをやっている店は当然、観光客目当ての商売になるので、
建物は古いが、料金は高いのだが、
一方、新しい町のレストランは建物は新しいが、
ここで生活する人のためのレストランなので、料理の値段は安い。


どこの水郷村も水路を船で遊覧することができる。
中国の観光地は社会主義国というか国家権力が強い国というか、非常に整備されていて、
たとえばインドのようにボートの料金交渉をしなければならないといったことはなく、
基本的に「遊船中心」という船チケット売場があって、そこで1船50〜80元(750〜1200円)と、
料金がよくもわるくもしっかり決められている(料金に幅があるのは水郷村の場所によって違う)。
30分ぐらいで水路をぐるぐる回ってくれる。
水から眺める街並みもまた一興。ぜひ乗ってみたい。
なぜか漕ぐのは決まって女性の仕事であるようだ。

ちなみに観光目的の船だけでなく生活のための船もある(写真右)。
こういった生活船は古い街並みの水路内というより、
水郷村からその外にある町との物資の移動などに使われているように見受けられる。
単に観光目的ではなく、こうした生活臭が残る、暮らしの場としての水郷村の一面があるからこそ、
すごくおもしろい場所なんじゃないかなと行ってみて再認識した。

・2:顔に歴史あり



水郷村に行って、僕が撮りたいと思ってカメラを向けたのは老人たちだった。

意外だった。
地球の歩き方「上海・蘇州・杭州03-04」の水郷村の写真を見ると、やけに子供の写真が写っている。
子供写真家のわたくしとしては願ってもない場所だった。

実際、水郷村に行くとたしかにそこに住んでいると思わしき子供たちがいる。
はじめはきっと無意識的に今までカメラを向け続けてきた子供たちを撮っていた。
でも、何かしっくりこない。違うんだな、何かが。

それで子供を撮るのをやめた。
子供を撮れば絵になるというのは嘘だ。
絵になる場所、絵になるタイミング、絵になる子供というのがいる。
ここは、どうも絵にならない。

多分それはカメラを向けた時の子供の反応だと思う。
カメラを介した子供と一外国人のコミュニケーションがどうにもうまくいかない。
写し撮ろうとした子供の心の中に、
現代社会の汚濁ともいうべきか、何か不純なものを感じとってしまったからかもしれない。

まあ別に子供を撮るために旅行にきたわけではないし、景色は十分絵になるわけで、
いろいろなものに歩きながらカメラを向けていたわけだが、
この水郷村という場所にぴったりとくる、絶妙の被写体を見つけた。

老人たちだった。

人相は町や社会を映す鏡となる。
水郷村の暮らしを鏡として映し出していたのは老人たちの「顔」だった。

「顔に歴史あり」
そんな言葉がぱっと浮かんだ、奥深い歴史ある顔。
人相にこの町の歴史が物語られているように僕には思えた。

風景の一部としての人を撮る時は声をかけないが、人そのものを撮る時は、基本的に必ず声をかけて、
写真を撮る了承を得てから撮る。
2人ほど断られたが、それ以外は断らなかった。
というより、巨大な電子機器である一眼レフカメラを大仰に向ける、
中国人とも外国人ともとれる若僧は、俺の顔なんかを写してどうする気だろうかというような疑いを持ちながらも、
まあ、若気の至り、撮りたいんだったら断る理由もない、撮りたいだけ撮ったらいい、
といったような、そんな懐深い寛容さ感じさせるような返事がほとんどだった。

動じない。
でもひそやかに微笑んでくれる時はうれしい。

言葉は通じない。
老人から見ればただ一瞬通り過ぎるどこにでもいる旅行者の一人。
僕から見ればただ一瞬通り過ぎた時に撮りたいと思った一介の老人。
それは出会いですらない。

でも不思議とこの写真群に愛着がわく。

顔に歴史あり。
最近、顔に歴史のない人間が増えているからだろうか。

・3:水郷猫


猫、である。
昨年、ひたすら墓猫写真撮影に明け暮れ、6000枚に及ぶ墓猫写真を撮影し、
結構、評判良く「墓猫写真展」が終わったこともあり、
「脱墓猫」宣言をし、あれ以来、墓猫は撮りにいっていなかったのだが、
またしても猫に出会ってしまった。

そしてまた猫と水郷村がなかなか絵になるということもあり、
また、たまたまいたというよりは、あちこちの水郷村で結構、猫を目にしたこともあり、
「水郷村を語るには猫は欠かせまい」と思い、
水郷猫写真を撮影してきたゆえんである。


動物は、その社会を映す鏡である。

ペット、家畜、野良にかかわらず、そこに住む動物の顔相なり、表情なり、行動ってのは、
これがなかなかその土地の風土を如実に表している場合が多い。

のんびりした風土に暮らす動物はやっぱりその動作も緩慢だったりする。
ペットが不思議と飼い主の顔に似てくるのも、
住んでいる環境、住んでいる人間を、ペットがその鏡となっている証でもある。

水郷村には水郷村の風土にあった猫がいるというわけだ。
水郷村に住む老人たちがその歴史を表しているとするなら、
水郷村に住む猫もなにがしかの村社会を表しているに違いない。
そういう意味で、水郷村に住む猫というのはおもしろい1つの被写体であった。


そういった意味でも、そこに住む動物たちを見ると、
ある意味、人間を撮るより、その村の生活感をにじみだしていたりして実におもしろい。
水郷村の生活を想像させるような猫。
水郷村の空気を伝えるような猫。
動物はある意味、人間と違って、その点、実に正直でもある。


わが敬愛する、写真家でもあり作家でもある藤原新也さんが、
先日、地下鉄の無料情報誌でおもしろいエッセイを書いていた。
「猫度」の話である。
そのエッセイの要旨は、住い選びに参考にする材料が「猫度」であり、
ある程度、野良猫が住んでいるような町には、
そういった余分なものが住みつく空間や雰囲気に「ゆとり」がある指標になるというのである。
猫がいっぱいいれば、それはそこの社会がある意味「ゆとり」があることに他ならない。
そういう「ゆとり」あるところなら人間が住んでも「ゆとり」ある生活が送れるという、
そんな主旨である。


そんなわけで藤原新也さんの「猫度」という概念を使わせていただくと、
水郷村の「猫度」はかなり高く、「ゆとり」があり、人間も住みやすい社会だということだ。
比較の対象で悪いが、高層ビルが立ち並ぶ上海で猫を見掛ける頻度はあまりないことを考えると、
やっぱり大都会・大都市は住みにくいということか。
東京でも野良猫がひょっこり現れる場所というのは、下町的な町並みが残っているところとかの方が、
ビルが立ち並ぶ人工的な場所より多い傾向にあるわけで、
やっぱり社会のゆとりが違うわけである。


ということで、猫がいる風景がある水郷村。
そんな写真群から、水郷村の雰囲気を嗅ぎ取っていただければ幸いである。

いや〜、それにしても、こんなに猫がいるなら、
水郷猫撮影のためだけに、またこの地を訪れてもいいかな、なんて。