トリマカシ〜バリ・ジャワ紀行〜かさこワールド 写真貸出

『トリマカシ』〜インドネシア語で「ありがとう」を意味する言葉。
僕が唯一覚えた現地の言葉。そして僕が旅行中に最も多く言った言葉。
人の優しさにふれた旅だった。
バリ島・ジャワ島を旅行したかさこの最新紀行文『トリマカシ』をお楽しみください。

・バリ島写真

第一章 夕闇のジンバラン

・とうもろこし屋の憂鬱 

 「全くとうもろこしがさっぱり売れん。どないなっとるんじゃい。
 ビーチにはわんさか人がいるのに、どうして買うてくれんのじゃ。
 なんかわしに恨みでもあるんかいのう。
 海に沈みゆく夕日を見ながら、バリ島のビーチで食らうとうもろこし。
 こんな風情を味わんとは、もうこの世も末じゃ。
 こうなったら、ぼくちゃん、いじけちゃうもんねえ〜。」

 売れない商売道具を背に、砂遊びに興じるとうもろこし屋の憂鬱。
 この数時間後、彼のとうもろこしは繁盛することになるのだが、
 それは彼にとっては喜劇でもあり悲劇でもあったかもしれない。
 かさこと名乗る変な日本人に、1本5000ルピア(約65円)のとうもろこしを、
 あっさりと3000ルピア(約40円)に値切られてしまったからだ。

 とうもろこし屋の憂鬱は続く。
 いや彼には売れた喜びと、とうもろこしを焼ける喜びでいっぱいだった。
 「トリマカシ(ありがとう)」
 と、日本人は繰り返して去っていった。


・とうもろこし屋の憂鬱A  

 「おい、そこのとうもろこし屋のおやじ。ちょっとそこ、どいてくんねえか。
 せっかくのリゾート気分が台無しじゃねえか。
 夕日を見ながら海辺の砂浜レストランで、洒落たディナーを楽しむんだ。
 バリ、ビーチ、バケーション・・・。そこに『とうもろこし屋』はねえだろう。」

 「おやじ、いじけてねえで、良く聞けよ。
 なぜ誰もあんたのとうもろこしを買わないかってことだよ。
 これからなあ、採れたてのシーフード料理がたっぷり出るんだ。
 決してあんたのとうもろこしがまずいんじゃねえ。
 海岸でのシーフード料理と比べちゃ、どう考えても分が悪いってもんよ。
 悪く思わないでくれよ。これは仕方のないことなんだ。
 俺が思うに、海岸で売るより街の方に行った方が多分売れるよ、きっと。」

 「スミマセン、ビルオマタセシマシタ」
 「おお、こりゃいいや。トリマカシ、トリマカシ(ありがとう)。」

 とうもろこし屋の憂鬱は続く。


・夕闇のジンバラン

 打ち寄せる波の音を聞きながら、海に沈む夕陽を受け、
 海水に濡れた砂浜でサッカーボールを夢中で追いかける子供たち。

 僕はボールを子供たちのように足で追わず、ただ眼で追っているだけ。
 波に濡れない安全地帯で眺めているだけの僕のところに、
 不思議と吸い寄せられるかのように度々ボールがやってくる。

 その度に僕は彼らの方にボールを蹴って戻してやる。
 「トリマカシ(ありがとう)」
 彼らはボールを何度も戻してくれる僕に礼をいう。
 僕はわずかながら彼らのゲームに参加したような錯覚にとらわれ、
 幸せな気分になる。

 「トリマカシ(ありがとう)」

 彼らは不思議そうに笑って僕を見る。
 なぜボールをわざわざとってくれた人が「ありがとう」って言うのかって。


・陽気な屋台村の人々  

 バリのビーチといえば、クタ、レギャン、ヌサ・ドゥア、サヌールなど、
 高級ホテルとショッピングセンターに、大勢の日本人と相場は決まっているが、
 このジンバランのビーチは様相を異にしている。

 サッカーをする子供たち。砂遊びする地元の家族。のろまで緊張感のない犬。
 漁村なのか海辺沿いにずらりと並ぶちゃっちい小さな船。
 ホテルが少ないせいか日本人はいない。年配欧米人がぱらぱらといるぐらい。
 静かな穴場ビーチといった雰囲気なのだ。

 このジンバランの名物はなんといってもシーフード屋台。
 とれたての生き生きした魚介を量り売りして、焼いて海辺で食べさせてくれる。
 「こりゃ、最高だ!」
 何軒も立ち並ぶ屋台のどの店にしようか迷っていると、
 大きく手招きして「こっち、こっち」と声を掛けてくる。
 観光地特有の客引きのいやらしさが感じられない。実に陽気なのだ。
 そのあっけらかんとした態度に誘われ、言われるままに屋台に入っていく。

 「コンニチワ。エビ?イカ?サカナ?ビル?」
 なんだ。やっぱり日本語しゃべれるのか・・・。

・最高リゾート気分

 夕陽が水平線に沈み、闇に包まれたビーチには、
 ざあ、ざああ、と波の音が際立って聞こえてくる。
 波打ち際に並べられたテーブルには、しゃれた燈台の炎が揺らめく。
 ロマンティックな雰囲気の中、まだとうもろこし屋は必死に営業を続けている。
 「これからシーフードが山盛り来るのさ」と、僕はとうもろこし屋につぶやいた。

 ビール1本、ミネラルウォーター2本に、
 エビにイカに、しきりに「うまい」と勧められたバロガンという魚。
 野菜サラダに、野菜のピリ辛漬けみたいなものに、ごはんにピーナッツ。
 その場で焼いてシンプルな味付けしただけのものだが、これが最高にうまい!
 ほおばる、ほおばる。こんなうまいもん食ったことはないっていうぐらいに。
 一人50000ルピア(約650円)なのだから、日本で考えたら信じられない値段。

 安くて最高リゾート気分!と満足、満腹して席を立つと、
 「アリガトゴザイマシタ」と日本語が返ってくる。
 日本語を聞くと「ボラれてるんだろうな」と思ってしまうが、最高気分に、
 「トリマカシ(ありがとう)」と言って、海辺のレストランを後にした。

・ジンバラン名物  

 たらふく食べ終えると、涼しく心地よい夜の海岸を散歩する。
 シーフードが名物のジンバランで、とにかく気になるのがとうもろこし屋。
 海岸に50mおきぐらいに、とうもろこし屋が待機している。
 シーフードをたっぷり食べた後、誰がとうもろこしを買うっていうんだい?

 どうしても、ビーチととうもろこしとがアンバランスな感じがしてならない。
 そのあまりの不可解さに、僕は逆に裏読みした。
 (ひょっとするとジンバラン名物は、実はとうもろこしなのかもしれない)

 日本に帰って「ジンバランのシーフードはうまかったぜ!」と自慢したら、
 「それは観光客向けのサービスにすぎんのだ。
 サイコーにうめえのはとうもろこしだぜ!」てなことになったらどうしよう。
 とうもろこしを食べなかったせいで、
 「トラベルライター失格」なんてことになったりしたら・・・

 いや、そんなバカな話があるはずはないと思いながらも、
 様子をうかがうべく、そっととうもろこし屋に近づいていく。
 おいおい、なんだか香ばしい匂いが立ち込めてるぞ。
 もしや、ひょっとして・・・

・おやじ!

 そっと遠くから、気になって仕方がなかったとうもろこし屋をのぞくと、
 夕陽を背にしょぼくれていたおやじが、「俺の出番かい?」と言わんばかりに、にこっと微笑んだ。
 「目には目を、歯には歯を」をモットーとしているトラベルライターかさこは、
 マクドナルドでバイトしていた経験を生かして、0円スマイルで笑みに答えた。

 するとおやじはスマイルを「イエス」と捉えたのか、勝手にとうもろこしを焼き出した。
 「おやじ、待ってくれよ。俺は頼むなんて言ってねえぜ」と言ってみても、
 不敵な笑みを浮かべたまま、上機嫌でとうもろこし焼きに精を出している。
 断る口実を探そうと、トラベルライターかさこは「ハウマッチ?」とお得意の単語を発した。
 「5000ルピア(約65円)」とのおやじの返答に、
 「それじゃ高いな。おやじ。とてもじゃねいけど買えないね」ととりあえず言っておく。
 いくらなんでもとうもろこしの値段はまけないだろうとたかをくくって、
 「3000ルピア(約40円)なら買ったのになあ」とこの場から逃げる口実にする。

 するとおやじはあっさり「1本3000ルピアね!」と快諾する。
 「ホントに?ホントに3000ルピア?」
 買わせるための嘘ではないかと警戒していたが、こんがり焼きあがったとうもろこしを
 1本3000ルピアに値切って売ってくれた。
 まさか本当に値切ってくれるとは思わなかったので、なんか悪いなと思いながら、
 「トリマカシ、トリマカシ」とありがとうを連発する。おやじもそれに答えて「トリマカシ」を連発した。

 闇夜の海辺で波の音を聞きながら食べるとうもろこし。シーフードに負けず劣らずグッドだった。
 しかし、おやじ。いくら売れないからってあんなにあっさりまけちゃっていいのか?
 それとも3000ルピアでも俺がぼったくられてるのか?
 ジンバラン名物とうもろこし屋は、夜が深まるにつれ繁盛していった。

第二章 田舎道

 「懐かしいなあ。なんか自分の子供の頃の写真を見ているようで。
 笠原さんは知らないでしょうけど、昔の日本もこんな感じだったんです。
 舗装されていない道が多くて、動物が道端を歩いていて、
 田んぼや畑ばかりで、のんびりしていた・・・」

 僕らの親の世代に、アジアの写真を見せると、こんな感想が返ってくる。
 今の若い世代には考えられない感覚。
 生まれた時からコンピュータやらビルやらに囲まれて育ったのだから。

 ところが昔の日本を知らないはずの僕も、
 なぜかアジアの田舎村に行くと懐かしさを覚えてしまう。
 人間の本能なのか、求めているのはこんな田舎の風景なのだ。
 なぜか落ち着く。なぜかほっとする。まるで故郷に帰ってきたみたいに。

 残念ながら僕らの世代には「故郷」という感覚がない。
 そんな欠落感を埋めてくれるのが、アジアの旅なのかもしれない。
 だからこそ、今の若者はこぞってアジアを旅するのかもしれない。
 失われてしまった何か大切なものを求めて。


・水田地帯

 日本からバリ島についた翌日。バリ芸能・芸術の中心地ウブドをチャリンコで見てまわる。
 1日15000ルピア(約200円)でチャリを借りて、地図を片手に村を走り出す。
 外国で観光するのにちょうどいい足は、なんといってもチャリンコに限る。
 歩くより行動範囲が広がるし、気に入ったところがあれば途中で止まってゆっくり見れるからだ。

 観光客の集まるホテルやレストラン、みやげ屋の多いモンキーフォレスト通りを抜けると、
 一面に緑豊かな田園地帯が広がっていた。
 赤道直下の南半球の島に、日本の田舎のような景色が広がっているとは思ってもみなかった。
 青い空と白い雲が水田に映し出されている。
 のんびりとした風景に心洗われながら、サイクリングを楽しむ。

 中心地から走ること30分。横幅25mに及ぶ岩壁の彫刻群があるというイエプルに向う。
 バリは不思議な島で、仏教とヒンズ−教の混じった遺跡が点在している。
 イエプルもその一つ。
 チャリンコから降りると、入口にはガイドらしき人物が暇そうに4、5人たむろしている。
 その中の一人が「ガイドはいらないか?」と寄ってきたが、断るとあっさりあきらめてくれた。

 しつこくないガイドに僕はびっくりした。
 他の観光地であれば、断ってもかなりしつこくつきまとってくるのが普通だからだ。
 「やっぱりバリはいいところだ!」と一人、感激する。

 水田にヤシが繁った道を歩いていくと、岩壁の彫刻群が見えてくる。
 そこに待ち構えている一人のばあさんが見えた。
 新手のガイドではないかと、僕は警戒して歩を止め、写真を撮る振りをしながら様子をみた。
 するとそのままスタスタ歩いていった彼女が、まんまとそのばあさんに捕まってしまった!
 「大丈夫かな?あのばあさん」と不安になりながら、僕も近づいていった・・・。


・イエプルばあさん 


 岩壁の彫刻群のガネーシャ像の前で待ち伏せしていたばあさん。
 ガイドなのか、それともここにお祈りにきた単なる地元の人なのか、判別つきにくい。
 しかし、まんまと彼女はばあさんに捕まり、彫刻の説明を受けてしまっている。

 「あのばあさん、ガイドだ!」
 気づいた時には、もう時すでに遅し。
 ガイドを頼んでいなくても、勝手に説明しているのを聞いてしまったら、
 まず間違いなく金を請求されるのが、外国における観光地の常識。
 まあ、たいした金は請求されないだろうと、僕も近づいていき、ばあさんの説明を受けることにした。

 このばあさん、ガイドぽっくなくって、やっぱり本当はただのいい人なのかと思うぐらい、
 やさしくにこやかに彫刻の周りをうろうろしながら説明してくれる。
 お供え物を添え、水をまき、像の向って祈る姿は、
 信じる神に一身を捧げた信仰深い人そのものだった。

 いや、しかしここは観光地。
 いい人そうに見えるからこそ、観光客はだまされるのである。
 どうせガイド料を取られるなら、ばあさんの写真をいっぱい撮ろうと彼女に耳打ちし、
 二人でばあさんにカメラを向けて、何度もシャッターを切っていった。
 その度にばあさんは、ちょっと恥ずかしそうながらもにこやかにカメラ目線で応えていた。




・正体  



 イエプルばあさんの正体はいかに?
 敬虔なるバリ島に住む信仰者なのか。
 それとも金をせびるただのガイドなのか。

 イエプルばあさんの正体はいかに?

 トラベルライターかさこの対応はいかに?

・ドネーション

 ばあさんの適当な説明なんてどうでもいい。
 とにかくばあさんの写真さえ撮れればいいのだと、説明を聞かず、バシバシ撮った。
 まるでモデルのように、その一挙一動を見逃さずシャッターを切り続けると、
 ばあさんは、なんだが恥ずかしいような嬉しいようなで、はしゃぎまくっていた。

 写真を撮り終え、このまま逃げられるかも、とそっとこの場から離れようとすると、
 ばあさんは僕の手を引っ張って、岩壁のガネーシャの像を指差し、
 「ドネーション」と言うのであった。

 はじめは何の意味かわからなかったが、お供え物を指差ている様子から、
 この神像に寄付をしろ、という意味であることがわかった。
 ガイド料をよこせと言うのではなく、写真を撮らせてやった金をくれと言うのでもなく、
 寄付をしろというところが、このばばあ、なかなかやるな、と思った。

 寄付と言ったって、金はばあさんのものになることは目に見えているのだが、
 直接くれと言わず、神像に捧げ物をという作戦を使うところがにくい。
 文句を言って金を払うのをやめようかとも思ったが、
 ばあさんの自然な表情が、僕の戦闘心を失わせてしまった。


 「いくら?」と聞くと、すでにお供えしてある5000ルピア(約60円)紙幣を指差した。
 これで「1000円くれ」と言ったらぶち切れるところなのだが、5000ルピアならまあいいっかと、戦闘をせずにスンナリ払った。
 すると、ばあさん、やっと一仕事を終えた満足感に浸ってニンマリ笑うと、さっさと日陰の隅に戻って、次なる獲物を待つのであった。

 このばあさんにまんまとやられたなと思いながら、田舎道を戻っていった。

・のどか

 イエプルばあさんにまんまとやられたと、思いながら来た道を引き返す。
 金を取られたのに不思議と腹が立たない。
 ばあさんのやり方がうまかったからなのか、
 それともばあさんのキャラクターによるものか。
 あげた金額の問題か。はたまた僕自身の心境の変化なのか。

 理由は様々。でも気分がすっきりしているのは、
 きっとこの洗われるような風景に魅せられているからかもしれない。
 のどかで、のびやかで、心が落ち着く。
 青い空と緑に色づいた景色が、人を優しくさせる。

 自然は人の心境に大きな影響を与えているようだ。
 機械的・人工的風景に囲まれた人の心は、殺伐として寂寥になっていく。
 緑に囲まれたのどかな田園風景は、人を優しくさせ寛大にさせる。

 イエプルばあさんの出来事など、
 のどかな田舎風景が一瞬にして洗い流してしまう。
 田舎道を歩いて出会うのどかな風景に、心洗われていく。


・迷子

 イエプルから新たな目的地に向け、チャリンコをこぐ。
 日本のガイドブックの地図も、チャリンコを借りた情報センターの地図も、
 インフォメで買った地図も、すべてあてにならない。
 トラベルライターでありながら意外にも方向音痴なので、案の定、道に迷う。

 でも迷子になるからこそ出会える光景がある。
 小さな村にまぎれこんでしまったが、そのおかげで子供と何度も出会えた。
 その度に僕はカメラを向けた。
 田舎的風景の中で暮らす子供たちに、懐かしさとうらやましさを感じながら。
 子供の無邪気な姿に、どこかで自分をだぶらせたりしながら。

 子供を撮っている自分の姿に、ふとどっちが子供なのかわからなくなる。
 大人のおもちゃ「カメラ」を抱え、忘れかけた何かを取り戻すために、
 子供に写真を向けている僕こそが、子供なんじゃないだろうか?

 旅が忘れかけていた子供心を取り戻させてくれる。
 異国の小さな村で迷子になりながら、
 童心にかえって何かを必死に探し求めている。

 かさこさん、バリで探し物は見つかったかい?
(this photo by yuko)

・夕闇 

 子供の頃、外で暗くなるまで遊んだように、旅に出ると、暗くなるまで遊んでいる。
 まるで子供の頃に戻ったように。

 いつまでも遊びたくて、
 暗くなるのが恨めしい気持ちを子供の時に抱いたように、今も抱いている。

 「もうそろそろ暗くなるから帰らなきゃ」
 「もうちょっと大丈夫だよ」
 子供の頃に交わしていた会話を、旅で再現していたりする。

 旅という大人の遊びは、
 忘れかけた子供心を取り戻すタイムマシーンなのかもしれない。
 アジアに行けば、失われた過去を取り戻すことができる。
 飛行機というタイムマシーンにとって、
 子供の頃の自分にタイムスリップできるのだ。

 夕闇の南の島を、いつまでも宝物探して、自転車をこぎつづけていた。
 一体、そんなに必死になって何を探しているんだい?

 子供の頃の、純粋さや無邪気さが、よみがえってくるようだ。
 旅に出ることに意味があるとするならば、
 それは童心にかえることなのかもしれない。
 しばし日常の世界を忘れて。



第三章 ジョグジャの誘惑

・ようこそ、ジャワ島へ

 バリ島から飛行機で1時間。
 インドネシア本島のジャワ島、第二の都市、ジョクジャカルタに向う。
 同じ国内で距離が離れていないのに、時差があって時計を1時間戻す。
 空港に到着し飛行機から降りると、ムアッとした熱気が吹き寄せた。

 「これこそアジアだ!」

 バリ島のさわやかな暑さとは明らかに違う熱気がそこにはあった。
 肌にまとわりつくような熱気。
 これこそ僕のイメージしていたアジアだ、と新たな地を踏み出した。

 国内線しかない静かな真っ昼間の空港に入ると、
 民族衣裳を身にまとった5人の女性たちが、
 コカコ−ラの自動販売機を前に、妖艶な踊りで迎え入れた。
 怪しげな音楽に合わせて体をくねらせる踊りにしばし見とれながら、
 こんな踊りで迎えてくれるなんて、
 ジャワ島は、何かいいことがありそうだなと予感した。




・アジア的喧騒

 空港からジョグジャカルタの町に向う景色を見ながら、
 僕はこの町に、アジア的体臭を嗅ぎ付けていた。
 「これこそ、アジアだ!」
 ジョクジャには、アジア的混沌が漂っていたのだ。

 アジアの混沌とは、新旧入り交じった町の喧騒にある。
 街の中心マリオボロ通りには(通りの名前からして近代的だ)、
 立派な乗用車が走る中で、馬車が走っている。
 バイクが走る中、自転車こぎ(べチャ)が大勢たむろしている。
 サ−ティ−ワンにマクドナルド、ケンタッキ−まである町の中で、
 昔ながらの屋台が、歩道いっぱいに立ち並んでいる。
 すべてが混ぜ合わさり。混沌とした喧騒の中、
 まとわりつく熱気と人々の活気が共鳴しあい、町が生き生きとしている。

 何かが息づき、蠢いている。
 僕の中に眠っていた何かが、
 それに伴って蠢きだすような感覚にとらわれる。

 「アジアに帰ってきた」「旅の放縦の日々に帰ってきた」
 ジョクジャの町に魅せられ、僕は長旅の感覚を取り戻しつつあった。