ボダナート

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悪いことしようがバレなきゃいい、
という考えは、極悪な犯罪人に限った話ではなく、
誰にでも心の隅にあるのではないか。

でももし世の中で起こっている出来事を、
空から全部見ている“神様”がいるとしたら、
弱き心も誘惑も歯止めがかかるかもしれない……。

ネパールのカトマンズに「目玉の寺院」がある。
代表的なものは、世界最大ともいわれるボダナートと、
小高い丘の上に建つスワヤンブナートだ。

ストゥーパ(仏塔)に顔がついているかのごとく、
ギョロリとした目玉が四方についていて、
まるで愚かな人間の行いを、
すべて見透かすような迫力がある。

目玉の寺院を訪れるのは三度目だが、見る度に、
「どこかにいる神様が人間の行いをすべて見ているのかな」
「悪いことはできないな」と思ったりもする。

政治家や官僚や企業に限らず、
国民一人一人を含めた日本人すべてが、
「バレなきゃ何でもやってもいい」
という風潮が蔓延しているような気がする。

しかも実際にバレないこともある。
バレないことで巨額の利益を得たり、
おいしい思いをしたりもする。
そうした「成功体験」をもとに、
犯罪行為がエスカレートしていくことは、
今の日本社会でいくらでもあるだろう。

ただ私は人間なんてものは、
心弱き、愚かな存在だと思っているから、
「悪いことするな!」「悪いことしている奴がいたら止めろ!!」
というのはほとんど効果がないと思っている。

だから人の欲望を抑えるために法律がある。
人が平穏に生きていくために、
欲望にまかせてやってはいけないことを列挙し、
それに違反した場合はそれなりの罰を科す。

しかし今や法律だけでは機能しなくなってしまった。
どんなに厳罰化しても、堂々と犯罪を行う人は後を絶たない。
まあだからといって厳罰化することに意味がない、
というのはまったくナンセンスだとは思うが。

モラルやマナーの欠如が原因とか言われるけど、
今までは法律で縛られる前に、宗教があったことで、
人間は意識の中に“モラル(道徳)”を刷り込まれ、
行動を抑止できてきた。

すべての行いを見通す、神様の存在がいると信じていたからこそ、
誰かが見ていなくても、
バレてしまうという恐ろしさから、欲望の抑止力が働いたのだ。

しかし今や日本に限らず、全世界的に「神なき時代」を迎えている。
グローバル経済という名のもと、
お金をいかに儲けるかを競い合う資本主義経済のルールが、
あらゆることに優先している今、
世界的に宗教という“足かせ”は取っ払われ、
いかに合理的に効率よく、時には違法なことをしても、
儲けたもん勝ちという風潮が広がっていった。

資本主義的な数値競争では“最貧国”に分類されるネパールには、
ボダナートやスワヤンブナートに限らず、
街角の路地にもまだまだ多くの目玉の寺院があるが、
時代とともにその“神性”は失われゆくかもしれない。

すでに目玉の寺院(神様)を失った日本で、
どうしたら悪さを減らしていけるのだろうか。

現代版“目玉の寺院”を作れば、
「悪いことしようがバレなきゃいい」
という考えは減っていくかもしれない。

果たしてそれは何なのか。
法律か、宗教か、教育か、ネット制裁力か、
はたまた現代版目玉の寺院ともいうべき監視カメラなのか。

それが何なのか、私にはわらからない。
ただ一つ言えるのは、
性善説に成り立って社会の仕組みを考えてはいけないということだ。

人間は心弱き、愚かな存在。
よほどの聖人君主でない限り、
目の前の欲望に負けてしまうし、
自分の損得ばかりを優先するし、
人が見ていなければ悪さもする。

人間は悪いことをするという性悪説に基づいた、
社会設計と抑止力を考えなくてはいけないと思う。

日本社会にとっての目玉の寺院とは何だろう。
カトマンズは今日も目玉の寺院が街中を見渡している。

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