カトマン沈遊記 かさこワールド カトマン沈遊記目次


「カトマン」とは、ネパール王国の首都、カトマンズのことである。
以前、カトマンズは、カンティプル(サンスクリット語で「栄光の町」)と呼ばれていた。
1596年、ラクシュミー・ナラシンハ・マッラ王により、
1本の巨木から建てられた寺院、カスタマンダップがなまってカトマンズになったのが、地名の由来とされている。

カスタマンダップは聖者の宿泊所として建設されたものなのだそうだが、
今のカトマンズは、聖者ならぬ先進国のヒッピー崩れがたむろする旅行者天国として栄えている。


・プロロ−グ
「旅は移動にあり」
なんだか、そんな偉そうな旅の格言のごとき言葉をどこかで聞いたことがある。
どこの誰が言ったのか、どこかのものの本で読んだのか、果たしてそれがどこからの受け売りの知識かもわからず、
ただ自分の中での「旅」観というものに大きな影響を与えていたことは事実であった。
情報化社会とは全く恐いもので、自分ではそんなこと思ってもみなかったはずなのに、
いつのまにか自分で編み出した哲学みたいに、「旅は移動にあり」と自分の中で信じきっていた。

移動することこそが旅であり、いや旅=移動なのであって、移動しないのは旅ではない。
移動するからこそ、そこに旅のダイナミズムが発生し、旅の醍醐味を味わえる。
まだ見ぬ新しい町へと想いを馳せて、次々と移動を繰り返していくこと。それが旅であると思っていた。

それと対極に位置する、移動せずにずっと同じ場所に滞在し、何もしないで無目的にただいつづけることは、
単なる怠慢でしかなく、それは到底、旅と呼べるものではないと考えていた。
実際、僕は2ヵ月前に日本を出発してから、移動に移動を重ねてきた。
バスや列車、そして船、時にはトラックや耕耘機まで使って、移動を繰り返してきた。
韓国、中国、モンゴル、再び中国に戻り、シルクロ−ドを進み、
そこからチベット、そしてネパ−ルと、広大なアジア大陸を駆け抜けてきた。
50日間でおよそ10000kmあまり移動をした。まさしく移動の旅だった。

「世界を旅したい」
飛行機大全盛時代に世界を旅したいなどという言葉はあまりに陳腐なものでしかありえない。
だからこそそこになにがしかの工夫を施すために、僕は飛行機を使わずに旅をしようという、
下らない取り決めを自分で勝手に作って、わざわざ不便な乗り物たちで延々長い移動をしてきたのだ。

「旅をしたい」という戯言は、会社を辞める大義名分にはもってこいだった。
国際化が叫ばれる社会において、「世界を肌で感じるために旅に出てきます。だから僕は会社を辞めます」なんて格好いいじゃないか、
などと自分一人で自己満足しているわけだが、自分の親ぐらいの年代の上司は、
「全く今の若いもんの考えることはわからん」とまったくさじを投げた様子で、
好きにしろといった感じで、意外にもすんなり辞める事ができて僕は幸いだった。
辞めるのを止められたらどうしよう。何を言われようが強行突破するつもりではあったが、
「世界を旅したい」などという馬鹿者はのっけからいらんのだと見られたのか、スムーズに辞めることができて助かった。

会社生活は決して嫌ではなかったが、日本社会から解き放たれて旅に出ると、
僕は子供に戻ったかのように無邪気に遊んだ。自分の好奇心にまかせて、僕はあちこちを駆け巡った。
移動に移動を重ねることによって旅の毎日を楽しんでいた。移動を続けるスピード感が心地よかった。
これこそが旅だと思っていた。

ところがネパ−ルに到着してからというもの、毎日のように移動を重ねてきた僕の旅のスタイルは脆くも崩れ去ってしまった。
新しい町へ行くこともせず、特に観光することもなく、ただ安宿でぼんやりとしていた。
僕の行動範囲はどんどん狭まっていった。へたしたら安宿から一歩も出ない日もあった。
旅のスピ−ド感は急速に失われていった。

ネパ−ル・カトマンズは古くからバックパッカーの間では「旅行者天国」と呼ばれる町として知られている。
アジアの中でも極めて安い物価であること。安いだけでなく物が豊富にあること。
気候が苛烈でなく、比較的あたたかで過ごしやすいこと。
そして何より人々がやさしく、英語が通じることなどがその理由であると思われる。
長期旅行者にとって好都合な条件がここには見事にそろっていた。

あらゆる面で刺激の強いインドからの休息地として、また厳しい自然環境と中国政府の規制によって
自由な旅がしにくいチベットからの休息地として、カトマンズに休息を求めて長期旅行者がたまっていく。
疲れを癒す休憩地点として旅行者に親しまれている場所なのだ。

僕も今までの移動の旅に疲れたのか、それともカトマンズの旅行者を吸い寄せる魔力みたいなものに吸いつけられてしまったのか、
すっかり「旅行者天国」の虜となってはまってしまっていた。
僕はカトマンズに完全に沈み込んでしまった。次第に行動するのが億劫になり、何をするのも面倒になり、
ただ安宿で何もせずぼんやり過ごすことが多くなった。
毎日の唯一の楽しみは、食べることと寝ることだけだった。

まだ見ぬ新しい町に想いを馳せて、移動を続けていく旅人の姿はそこにはなかった。
異国の歴史や文化に興味を持ち、好奇心であふれかえって観光をしていく旅人の姿はそこにはなかった。
ただ安宿でへたれた生活を送っているだけ。そんな生活が1ヵ月も続いた。
「これは旅ではない」
そう思っていた。

長い旅を終えて日本に帰って日常の生活に戻った時に、なぜか不思議となつかしく思えるのは、
移動を続けていた時のことではなく、何もせずカトマンズの安宿で沈みゆく日々を過ごしていた時のことばかりだった。
でも一体僕はカトマンズで何をしていたのだろうか。ふとそんなことを考えた。

沈みゆく日々を思い出すと、何もしていなかったようで、意外にいろんなことがあったりして、
でもそれはたいしたことではないけれど、そんな些細な出来事が、僕の長い旅の中で、
最も旅らしいことだったのではないか、と思うようになったのである。
ただ何もせず安宿でぼ−とすることも、一つの旅なのではないか。
移動だけが旅ではない。異国の安宿で沈みゆく日々もまた旅と言えるのではないか。
そんな風に思い返したのである。

ネパ−ル・カトマンズでの沈みゆく日々の出来事。
それがこの「カトマン沈遊記」。
謎の安宿「ミニオムホテル」を中心とした沈みゆく日々の「旅」の記をここに描き出してみた。
あちこち駆けまわって観光するのではなく、ただ一ヵ所にとどまってぼーと過ごした「旅」の楽しみが、
この「カトマン沈遊記」にはいっぱい詰まっている。

・ミニオムホテル
「カトマンズですごく安くていいホテルを知ってますよ。『ミニオムホテル』っていうんです。
安宿やレストラン、おみやげ屋とか旅行者向けの店が多く集まったタメル地区のど真ん中にあるんです。どこに行くにも便利ですよ」

チベットからネパ−ルまで一緒に旅をすることになった、
元AV男優で今はカメラマンという変わった経歴の持ち主のひしさんが僕に教えてくれた。
それがこのホテルを知るきっかけだった。
僕は「ミニオム」という、意味不明で、ちょっと間抜けな名前が気に入った。
カトマンズに着いてひしさんと共にホテルに行くと、教えてもらった通りまさしくタメルのど真ん中にあった。
ど真ん中ではあるが、みやげもの屋やツ−リスト向けのレストランが立ち並ぶ騒がしい通りから1本入っているので、
うるさくなく静かな場所だった。

その通りには今にも崩れそうな古ぼけたアパ−トのような建物がびっしり立ち並んでいた。
どこも6、7階以上の高さがあり、間口は狭く奥に建物が伸びている。
ミニオムホテルも周囲の建物と同じく、間口が狭いので入口は狭い。
だからなんとなくあやしげな感じがするが、宿に入るとひしさんの顔見知りなのか、宿屋の息子があたたかく迎えてくれた。

7階建てのミニオムホテルだが、もちろんエレベ−タ−などない。暗く狭い階段を上っていく。
部屋はもちろん「清潔」という言葉とはかけ離れている。ベットは小さくて硬い。シ−ツは汚い。
部屋にはありんこが歩いている。電気は裸電球が一つつけられているだけで当然に夜は暗い。
シャワ−とトイレは共同で、熱いお湯は天気の良い昼間にしかでない。ぼろいソ−ラ−システムを使っているからなのだそうだ。

でもここは値段が安かった。安宿が集まるタメル地区の中でもかなり安い方だった。
1人1泊50ルピー(約80円)なのだ。これだけホテル代が安くすむならこんなありがたいことはない。
到底きれいとは言い難かったが、この安さと利便の良さから、ここが僕のカトマンズの拠点となった。
このミニオムホテルでカトマンズ沈没生活を過ごした。観光もろくにせず、
どこかに行くわけでもなく、ただぼーとした生活を1ヵ月近く続けたのである。

なぜかモナリザの絵が飾られている、正式名称は「CO2 」というあやしげな部屋。
カトマンズの小高い丘の上に建つ仏塔スワヤンブナ−トがばっちり見える、一番階上にある「AO2」ル−ム。
ホテルの従業員から「暇な日本人だな」と思われていたに違いない、屋上での日光浴。
青い壁に赤いペンキで書かれた「マッサ−ジル−ム」の謎。 3年もこのホテルに住んでいるという「BO2」ル−ムの「ジュエルビジネス」。
ホテルだけではやっていけないのか、泊まっている最中にオ−プンした1階レストラン。
どこにも行かなかったけど、このミニオムホテルにいれば、何かが起きた。

そんなあやしげなホテルでの出来事が、僕を楽しませてくれた。