カトマン沈遊記 かさこワールド カトマン沈遊記目次

・オクシガンセル
カトマンズ沈没生活をもう何週間か続けていたが、いつかはここを脱出するつもりでいた。
次の目的地はインド。いつまでたってもネパールから抜け出せそうにないと思いながらも、
特にやることはないので、インドに行く準備をしようと、荷物を整理することにした。
インドに行く前にできるだけ少ない荷物にして、動きやすくしたかったからだ。

バックパックから洗いざらいすべてのものをベットに広げてみると、
これがまた、いらないもの、使わないものがぼろぼろたくさん出てきた。
もう2ヶ月も前に韓国で買った折りたたみ傘は、広げてみると壊れてもう使えなくなっていたし、
中国のホテルに備え付けてあったくしを、何かの役に立つだろうと何個ももらってきたが、
結局は必要なかった。
長い旅行を続けていると必要以上に貧乏性になって、ただでもらえるものはとりあえずもらったし、
安く買ったものもなかなか捨てようとしなかったから、
いっぱいいろんなものがこれまでの旅行でたまっていたのだ。
カトマンズでのんびり滞在していると、手ぶらで出かけることが多く、
バックパックを背負う機会がなくなっていたから、こんなに重くなっていることに気づかなかったのだろう。
とにかくできるかぎり少なくし軽くしようと、極力物を捨てていくことにした。

荷物の整理中に、僕はもっともがさばり、もっとも役に立たない、
しかし高い値段で買ったので捨てれずにいた物を発見した。
これこそ無用の長物だった。それはチベットに行く前に買ったオクシガン(酸素スプレ−)だった。
なぜそんなものを持っているかというと、
中国からチベット行きのバスに乗る時に必要だと聞かされて買ったからだった。
中国内陸のチベットへの入口の町ゴルムドで、チベット・ラサ行きのバスを予約した時の旅行会社の人が、
しきりにオクシガンを買った方がいいと勧めたのだ。

「チベットまでのバスの旅は、大変苛酷なものです。多分30時間から40時間はかかるでしょう。
1000km以上の道程なのです。途中5000m以上の峠を二つも越えなくてはなりませんので、
高山病になる恐れがあります。それを防ぐためにはまず水分を普段以上に補給すること。
途中に売店はありませんのでここで買っておく必要があります。
最低でもミネラルウオ−タ−4本は必要です。できれば6本ぐらいあった方がいい。
それでも高山病の症状がひどくなった時に効くのがオクシガンです。
最低でも2本。できれば3、4本買っておいた方がいいと思いますよ」
40歳過ぎの旅行会社のおばさんは、中国人にしては流暢な英語でそういった。

「いくらなんでも、そんな必要はないだろう」と鼻で笑うことはできなかった。
だいぶ大げさな気もしたが、言っていることは基本的に間違いはなさそうだった。
たとえ高山病にかからなかったとしても、中国のオンボロバスに30時間も揺られれば、
体がおかしくならない方がおかしいのだから。
一番困るのはここでお金をけちったがために後で後悔することだ。
たかがオクシガン1本32元(約500円)をけちったがために、
高山病になってしまって苦しい想いをするのはバカらしい。
オクシガンを実際に使うか使わないかはともかく、保険だと思って買っておくことに越したことはない。
5000mの峠越えをするのだから多少の保険は必要だろう。
備いあれば憂いなし。楽しい旅をするためにも万全の準備をしておきたかった。

そう考えて、じゃあ彼女の言う通りしたかというとそうではない。
いくらなんでもミネラルウオ−タ−6本に、オクシガン3、4本は多すぎる。
僕はよくよく考えた末、ミネラルウオ−タ−を3本、
オクシガンは1本か2本買うかで迷ったあげく、結局2本買うことにした。
おばさんが2本買えばスペシャルプライスで1本あたりの値段を2元安くしてくれるという、
他愛のない口車に引っ掛かったというわけだ。

ところが結局使わなかった。
確かにゴルムドからチベット・ラサ行きの30時間バスの旅は、猛烈に厳しい旅であったが、
幸いにも高山病にかかることもなく、オクシガンの出番はなかった。
しかしだからといってすぐ不要なわけではなく、
もしかしたらチベットにいる間に使うことがあるかもしれないと、ずっとバックパックの中に入れておいた。
結局チベットにいる間も使う場面はなく、
しばらくするとオクシガンを持っていることを忘れてしまい、
ネパ−ルまでずっとバックの中に入れて持ち運んできてしまったのだ。

もういくらなんでも使うことはありそうもなかった。
邪魔な物は捨ててしまえばいいのだが、2本で1000円もしたので処分できずにいた。
一層のこと日本へのおみやげにしようかとも考えたが、
これからの旅でずっと持ち歩くにはがさばるし、かといって送るのも金がかかる。
どうにも処分の困るやっかいな物だった。

どうしようか困っていたある日のこと。一日中雨が降り続いたために、
ミニオムホテルから一歩も出ることなくずっとモナリザルームにいた時のことだった。
僕のベットの脇には処分に困ったオクシガンが2本置かれていた。
僕は暇にまかせてオクシガンのスプレ−を見続けていた。
捨てるべきかどうするか。そんな時に、同じ部屋の学生君が声を掛けてきた。
「タカさんもオクシガン買ったんですか?」
「そうなんですよ。邪魔で邪魔でしょうがないんですよ。
かといって結構高い金出して買ったから簡単には捨てられず、どうしようか困ってるんですよ」

互いに夢遊病者のように、虚ろな目つきでベッドに寝転んで安宿の天井を眺めながら、
宙に向ってしゃべっていた。
「僕もオクシガン1本あるんですよ。何なら僕のももらってください。僕もいらないんで」
学生君はカトマンズ沈没生活をいよいよ脱出することが決まっていた。
2日後に飛行機でタイに行くことになった。だから彼にしてもオクシガンは邪魔な代物だった。
「おいおい、やめてくれよ。ただでさえ2本もあって困っているのに、もう1本増やしてどうすんだよ」
「3本まとめてその辺で売ればいいじゃないですか。日本人の露天商なんておもしろいんじゃないですか」
他人事だと思ってかってなこといいやがって。

「売る?そんなもの売れるわけないよ。ん、待て待て…。」
僕の頭の中に「売る」という発想は、今まで全く思いもつかないことだった。
捨てるか、みやげとして日本に送るかのどちらかしか考えていなかった。
「売る」と聞いてまず思ったことは、「誰がこんなもの買うんだ」ということだった。
でもよくよく考えてみれば、もしかしたら売るというのは非常に良い方法かもしれない。
というのも、カトマンズにはネパ−ルからチベットに行く人がいるだろうし、
ヒマラヤ山脈へのトレッキングに行く人たちならいくらでもいるはずだ。
ということは、高山病に効くオクシガンが必要な可能性は高いのだ。
カトマンズにはトレッキンググッズを売る店は腐るほどある。
オクシガンを売っている店を見たことはなかったが、探せばあるはずだ。
そこならきっと買いとってくれるのではないか。これはグットアイディアだ!

「ねえ、やっぱりオクシガン頂戴」
僕は自分のアイディアを学生君に悟られぬよう、何気なく言った。
「いいっすよ、こんなもん」
と、学生君はなんなく僕にくれた。
学生君にしてもずっと邪魔だったオクシガンがなくなって、さっぱりしている様子だった。
僕は自分の不要なオクシガン2本に、さらに学生君のいらなくなったオクシガン1本を追加した。
売れるかどうかわからないが、試してみる価値は十分にある。
僕は3本になったオクシガンを見て期待を膨らませた。
捨ててしまえばそれまでだが、少しでもこれが金になれば儲けものじゃないか。
コ−ヒ−ぐらい1杯飲めるかもしれない。
僕は雨の止んだ翌日、オクシガン3本を持って、カトマンズの店に売りに歩きにいったのである。

店に入って物を買うのではなく、物を売ろうとすると、店の主人はどこも嫌な顔をした。
物を売るとなれば必死になって売りつけようとしていた店の人たちも、
自分たちが買う立場になったら急に渋りだす。
僕はネパ−ルの店で物を買ったことはあるが、物を売ったことはもちろんない。
全く立場が逆転したのである。
自分が物を買う時はさんざん値切ったり文句を言ったりしたくせに、今度は自分がされる番だった。

店に入ってオクシガンを見せる。相手は神妙な顔つきで眺め回したあげく、
「これは空だ。何にも入っていないじゃないか」
と、文句をいうのである。当たり前じゃないか。酸素なのだから、
空のように思えるのだ。
「これは酸素スプレーだからそう思うんだ。よく見てみろ。蓋は開いていない。間違いなく酸素は満杯入っている」
「いや、振っても音がしない。これは何も入っていないに違いない」
「酸素なんだから振ったって音がするわけはない。どこも穴は開いていない」
と、こんな問答を続けるところから出発しなくてはならなかった。

オクシガンを売ろうとして問題なのは、売るものが目に見えないということだった。
たしかにスプレ−缶という外形はあったが、中に本当に入っているのかと言われれば、
僕だって使ったことがないのだからわからない。ただ入っているはずだと言うしかない。
これが靴やリュックを売るなら楽だったのに。オクシガンとは全くもって厄介な商品だ。
まずこのスプレ−缶に酸素が入っていないんじゃないかという疑いを晴らすところからスタ−トしなくてはならない。

とりあえず全く使っていないからということで渋々納得させると、今度はどう使うのか教えてくれという。
僕だって使ったことはない。しかしいかにも知っているかのように、
そっと缶に書かれた説明の絵を見ながら、自信たっぷりに教えていく。

「まず酸素を吸うためのチュ−ブは、口ではなく鼻にあてる。これはよく間違えるから気をつけるように。
次にチュ−ブを付けおわったら、蓋を右に回せば酸素が出てきて、使いおわったら左に回せば閉まる。
初心者でも簡単に使える便利なオクシガンだ」

使ったこともないのに我ながらよく言うなと思わず自分に感心してしまう。
買ってもらうためには僕が使い方を丁寧に教えてあげなければならない。
しかしこれじゃあ僕はまるでオクシガンの営業マンじゃないか。
使い方を教え、さあいよいよいくらで売ろうかと値段交渉に入ろうとすると、
「いや、やっぱりうちじゃ買えない」
とオクシガンを差し戻された。結局のところ本当に酸素が入っているかまだ疑っていたのだ。

「売る」というのは名案だと思って期待をしていたのに、
どこの店でも文句をつけられて買ってくれる店はなかった。
畜生。とことん役立たずのオクシガンめ。結局は捨てるしかないかなとあきらめながら町を歩いていた。

これじゃあどこの店にいったって同じだろうと思いながらふらふら歩いていると、
たまたま道端で商売しているポストカ−ド屋が目に付いた。
その瞬間「これだ!」と僕はひらめいた。
そうだ。売ることがだめなら何かと交換してもらえばいいのだ。
オクシガン1本でポストカ−ド5枚ぐらいと換えてくれれば恩の字だと思い、
ポストカ−ド屋に近づいていくと、早速交渉してみることにした。

「あの、オクシガンとポストカ−ドを換えてくれないか?」
「はあ?何言ってんだ?」
「僕がオクシガンを君にあげるから、君は僕にポストカ−ドをくれ!」
ポストカ−ド屋の若い男はオクシガンをはじめて見るのか、不思議そうに手にとってじっくりと検分している。
しかしその目は実に疑わしげだった。そこで僕はオクシガンのセ−ルストークに入る。

「これはまだ一度も使っていない新品同様のもので、しかもなんと日本製なのだ。
これはトレッキングには絶対に欠かせないものだ」
日本製とは嘘だった。本当は中国製。
ただ「メイドインチャイナ」というより「メイドインジャパン」といったほうが聞こえがいいような気がしたので言ってみた。
スプレ−缶には漢字で説明書きが書かれているから、ネパ−ル人にはそれが中国製か日本製かなんてわからないはずだ。

そんな僕の工夫した(嘘をついた)セールストークをしてみたものの、あっさりと、
「俺はトレッキングにはいかない。だからいらない」
と返されてしまった。
そんなアホな。何がトレッキングに行かないだ。
タメルを歩いていると、トレッキングに行かないかとさんざんあちこちで声を掛けてくるくせに、
ネパール人が行かないとは一体どういうことだ。
まったく。なんてこった。
500円したオクシガンが5枚100円のポストカ−ドとも交換できないとは。
僕の疲労感はどっと増した。何やってんだ。
とっとと捨ててしまえば良かったと今更ながら、売れると思った自分がバカだったことに気づいた。

オクシガンを売ることもできず、ポストカ−ドと交換することもできずに、
僕はとぼとぼとミニオムホテルに向って歩いていた。
売れなかったからといって、このままオクシガンを持ちかえっても仕方ないなと思った。
どうせ捨てるならどこかにただでもいいから置いてもらおうと、たまたま通り掛かったトレッキング用品店に入った。

オクシガンを差出し、「これあげる」という言葉をぐっとのみこんで、
ただ店の主人に見せると、意外にも興味を持ってくれているようだ。
ただで引き取ってもらうつもりでいたが、とりあえず売ってみて駄目だったらあげればいいやと思った。
「おまえはいくらで売りたいんだ」
と、こちらの値段にさぐりを入れてきたので、
「あなたはいくらなら買うんだ」
と、こちらも相手の出方をうかがうことにした。

互いに自分から値段を言うのが嫌なのだ。
どのぐらいするものなのか、互いにわからないから、相手の相場をまず聞き出そうという魂胆なのだ。
「おまえがいくらで売るつもりなのか言ってくれ」
こうなった場合は売る方の立場が断然弱い。
買ってもらうのだから、こちらから値段を提示するのが筋だろう。
しかしこのオクシガンの値段を一体いくらからはじめたらいいだろうか。
欲張ってあまり値段を高くしすぎて買ってもらえなくなるのも困るが、
かといって安すぎてもそんな価値しかないのかと思われても困る。
とりあえず買った値段から提示して、そこからいくら下げていくかだなと思い、
「これは中国で3本1000ルピ−(1500円)で買ったものである。
蓋は開けていない新品同様のものだが、
まあ買ってから大分時間がたっていることもあるので中古品として考えて、
半値の500ルピ−と言いたいところだが、今回は出血大サービスで特別に250ルピ−にしよう」
と、自分で言っているうちに勝手に値引きするはめになってしまった。

これはいかんいかんと思っていると、店の主人は「ふっ」と軽く鼻で笑った。
「それは高すぎる」
「じゃあ一体いくらなら買うつもりなんだ?」
「100ルピ−」
「はっ」とこちらも対抗して笑ってみせる。
「これは言っておくが一度も開けていない新品同様のものだ。250ルピ−以下の値段にすることなんてできない」
「いや100ルピ−だ」
「しょうがないな。わかった。特別の特別で200ルピ−にしよう」
「だめだ。100ルピ−だ」

なかなか強情な奴だ。しかし僕はこの時点で100ルピーで売っても儲けものだと思っている。
なんといったってもう売れないからあげてしまおうとあきらめていたところなのだから、
100ルピーでも金になればバンバンザイだ。
しかしあっさと相手の言い値にしてしまうとかえって価値をあやしまれるから、こうして値段交渉につきあっているのだ。

「よし、わかった。君のいう200ルピーと僕のいう100ルピーの間をとって、150ルピ−にしよう。
これなら文句はあるまい」
「いや100ルピ−だ」
それにしてもなかなか頑固な奴だ。
この辺で値段交渉をやめて100ルピーで売ってしまってもいいかなとも思ったが、
あまりに売り急いで、相手に変に不信感を持たれても困ると思ったので、一通りの値段交渉をすることにした。

「わかった。しょうがない。これが最後の提示額だ。120ルピ−にしよう」
「いや。100ルピ−だ」
「あなたの強い意志に負けました。わかりました。110ルピ−にしよう」
これで決まったかなと思ったが、彼はそれほど甘くはなかった。
「たった10ルピ−しか違わないじゃないか。それだったら100ルピ−にしてくれ」
「全くもう商売上手なんだから。あなたには完全に負けました。100ルピ−で売りましょう」
と、やっとのことで交渉が成立した。

こちらにしてみれば幾分芝居がかった交渉だったが、100ルピ−で売れるとはもううきうきである。
どうせどこかにあげるか捨てるかの運命だったガラクタが100ルピーもの大金に化けたのだから。
取引が成立すると、僕はできるだけ早く店を出ようとした。
オクシガンを手にした店の主人がいぶかしげな表情で見ていたからだ。
もうお金をもらったからにはキャンセルさせるつもりはないが、やっぱりなしにしようなどと言われたら厄介だ。
「大丈夫、ちゃんと使える。ありがとう」
と、僕は逃げるように店を出た。

店を出た僕は、あのガラクタが100ルピ−で売れて大喜びだった。
冷静に考えるまでもなく日本円にしたら160円ぐらいなもの。
でもこれで現地の安い食堂なら、腹一杯2食分は食べられるお金なのだ。
こんなにありがたい話はない。
そして何よりお金が入ったということよりも、
異国の店相手に物を売る交渉がおもしろかったというのが一番の喜びだったのかもしれない。
なんといっても旅行者は物売りにしつこく物を買えと幾度となく言い寄られることはあっても、
自分が現地の人に物を売るという機会はなかなかないのだから。
自分の立場が逆転し、そしてそれが100ルピーで売れるという大成功?!を収めたからすごくうれしかったのだろう。
物を売るのは一苦労だったが、売れた時の喜びは忘れられない。

さあさあ、臨時収入100ルピーで今日はどんなご馳走食べようかな。
そうだ。オクシガンを1本くれた学生君にはなんかおごってやらなきゃな。