カトマン沈遊記 かさこワールド カトマン沈遊記目次

・ダルバ−ル広場に集まる珍商売との戦い
カトマンズ観光の中心地、ダルバ−ル広場。数々の古い寺院が残っていて、
生き神クマリの館もここにあるため、多くの観光客がこの広場を訪れる。
また観光の中心としてだけではなく、町の中心地でもある。四方八方から広場に道がつながっているので、
多くの人たちが生活の一部としてここを通り過ぎていく。北には日用品や雑貨を売る店がぎっしりと並ぶ、
アメ横みたいな雰囲気のあるインドラ・チョ−ク通りがあるし、東にはニュ−ロ−ドとその名のごとく、
銀行や商店、ホテルやレストランといったわりに新しい店が立ち並ぶ通りがある。
南に行けばジョッチェンという、タメルに次ぐ安宿街がある。
西に行けば、もうそこからは店はあまりない、地元の住む古い家並みが続いている。
そういういろんな性格を持ち合わせた通りが交錯する中心が、ダルバ−ル広場のため、
様々な人やリキシャ−やテンプ−などがひっきりなしに往来している。

人が集まるところには商売をするものも集まってくる。寺院の脇では野菜売りやお供え用の花売りが、その商品を並べている。
そういった地元の人たち向けの商売と共に、観光地ゆえに観光客目当ての商売も、このダルバ−ル広場には目白押しだ。
僕は特にやることがなかったので、退屈になったら暇つぶしにダルバ−ル広場に来た。
寺院の階段に座って、カトマンズの人たちを眺めると全く飽きないのである。
寺院の高い所まで階段を昇って腰掛けると、様々な観光客目当ての商売を目にすることができ、
時には階段にまで昇ってきて、僕に話し掛けてきたりする。

<広場の片隅で観光客にやたらめったら声を掛けているリキシャ−>
狭い道の入り組んだカトマンズで、幅を取りベルを鳴らしまくるくせにたいして早くはない、
リキシャ−こと自転車タクシ−は最も不要なものに思える。それでも彼らは熱心に観光客に声を掛けている。
ほとんど無視される。たまに引っ掛かるのは、多少金を持ってそうな西欧人で、リキシャ−が珍しいのか、
ただそれに乗りたいだけのために金を払っている。どこかに行くためなら、リキシャ−は明らかに不便だ。
同じ値段ならテンプ−(小型三輪バイクタクシ−)の方が早いし小回りも効く。

<リキシャ−の傍らで客を横取りしようとしているテンプ−>
リキシャ−が声を掛けた獲物を、横取りしようと狙っているテンプ−が待機している。
熱心に声を掛けるリキシャ−を利用して、楽して客を探そうと、リキシャ−の後にそっと待機している。

<観光客用いかさまサドウ−(修業者)>
サドウ−とはヒンズ−教の修業者のこと。ボロ布をまとい、日焼けした茶色の肌をあらわにし、
顔はサッカ−のペイントのように、赤や白で派手に塗りたくっている。
髪はのび放題のびているため、長い髪を束ねたものが身長と同じぐらいまでぶらさがっている。
ひげは仙人のように豊かに蓄えられている。首から数珠を何種類もぶらさげ、ボロ袋一つを持って、裸足で寺院に座っている。
そんな滑稽な姿に駄目押しするかのように、雨は降っていないのに黒い傘をさしている。

彼らがなぜカトマンズのダルバ−ル広場に来ているのか。それはきっと金目当てに違いない。
本物のサドウ−であるかはきわめて疑わしい、そのなりをして観光客の目を引き、
写真を撮らせて金を撮るという、立派な商売なのだ。
修業者が町の中心で出てきて、受けを狙ったかのように、傘をさして座っている。
ただでさえ奇異な姿をしているにもかかわらず、そこまでしていれば嫌でも目がいってしまう。
そこで彼らはこういうのである。
「ハロ−。カモン、カモン。フォト、フォト」

そんなバカな。本物の修業者が、観光客から話し掛けられたならともかく、自ら声を掛けるだろうか。
しかもカモン、カモンと呼び寄せたあげく、写真を撮れと命令するのだ。
何たる商売。でもこれが意外に成功を収めている。
まがいものを売っているみやげ屋より稼いでいるのではないかと思われる。

<みやげもの屋>
広場のスペ−スを利用して、机を出してきてずらっと並べられたみやげもの屋。
木彫りで黒塗りの神様の像や、どんな場面で使ったらいいのかわからない小さな鐘。
金ピカに塗られた灰皿のようなものから、銀色をした食器みたいなもの。
ぐるぐる回すだけでお経を読んだことになる、赤ちゃんのおもちゃのようなマニ車から、
いかにも価値のなさそうなアクセサリ−の類。こういったものを観光客相手に必死になって売りつけようとしている。

ふっかけることといったらあいさつ代わりみたいなもので、二言目にははじめ言った値段の半分になり、
三言目にはさらにまたその半額になるのだから、一体はじめの値段は何だったのだろうか不思議に思う。
それでもなかなか観光客の興味は惹いている。
しかしほとんどの人は見るだけで買わずに立ち去ってしまうというのが、ずっと眺めているとよくわかる。

<ハッパ売り>
広場にたむろする商売人と観光客の様子を眺めていると、その魔の手は僕の所にまでやってきた。
若い頼りなげな男が何気なく僕の隣に近づいてきて、世間話をするような風を装って話し掛けてくる。
君の名前は何だとか、どこから来たのだとか、ありきたりの話をする。僕は暇だからとりあえず適当に相手をする。
こいつの目的は何なのだろうか。

「ところで、ハッパを買わないか?」
ついに正体を表したな。ハッパ−つまりマリファナとかガンジャとか麻薬を売りにきたのが彼の目的だったのだ。
買う気はなかったので、「いらない。必要ない」というと、自分が持ってきたハッパの効用を必死になって説きはじめる。
これは良質のものだとか、君だけには特別に安い値段で売ってやるとか、しつこく話が続くのである。
面倒になってきたので、「僕は君よりいいものを持っている」といったが、
「いや、それよりこっちの方が絶対質がいい」 と力説するので、少しからかってやるかと思った。

「僕が持っているのは、マナリ−産のチャラスだ。マナリ−産のチャラスと言ったらすごい良質なもので有名だ。
インドに行った時に現地で買ってきたものを持っているから、
君がその辺の山からとってきた、純度の低いまがいものはいらない」
と豪語した。僕が持っているというのは嘘だった。
チベットから一緒に来たひしさんが持っているもので、説明してくれた通りの話をしたのである。

「マナリ−産のチャラス?そんなもの知らない」
「はっ、君はそんなことも知らないでよくハッパ売りがつとまるな。何なら君にそのチャラスを売ってやろうか」
「いや、いらない」
「君は本場のチャラスを吸ったことないんだろう。なぜ買わないんだ。君になら特別に安くしておいてやろう」
「いらないから、僕のハッパを買ってくれ」
「君はハッパのことをよく知らないじゃないか。そんな奴から買えるか」
そう畳みかけて、
「僕が君にハッパのことを教えてやるから、チャラスを買いなさい。安くしておいてあげるから」
と言うと、こいつは太刀打ちできないと思ったのか、そそくさと逃げていってしまった。

全く運の悪い奴に売りつけようとしたものだ。暇つぶしに来ている僕に物を売ろうなんて。
僕にとってはからかう相手がいておもしろかった。僕もハッパのことはよく知らないが、
ハッパ売りがハッパのことについてあまり知らないとは。きっとその辺の山からただで持ってきて売っているだけなのだろう。
ハッパをよくやる人に聞くと、こうして声を掛けてくる人のハッパの質はかなり悪いということらしい。
それでも興味本位に買ってしまう旅行者がいるから、こうしてダルバ−ル広場で網を張っているのだろう。

<靴の修理屋>
ハッパ売りが逃げてからしばらくすると、今度はあやしげな小道具を持ち歩いているおやじが目の前に表れ、
「あんたの靴はだめになっている。修理しなくてはならない」
と突然言い出した。なんであんたに僕の靴の悪口を言われなければならないのか。
確かに僕の靴の右足の、爪先についているゴムが布からはがれそうになってはいたが、別に支障はなかった。
すると、「私が直してあげましょう」と言い出した。

なんだ。君は靴の修理を商売としているのか。はじめはそうとわからなかったので、なぜ突然、
靴の不備を指摘したのかわからなかったが、そういうことだったのか。
確かに修理してもらってもいいなとも思ったが、どうせ直すなら、流れの修理屋より、
店を構えたところでちゃんと直してもらったほうがいいと思ったので、断った。
しかし彼は引き下がらない。靴が壊れているのに修理しないで放っておくのはおかしいという論理を唱えてくるのである。
確かにそれはもっともなことだが、かといって君に修理を頼むか話は別だ。

断る僕を無視して、彼は勝手に値段を提示してきた。まず200ルピ−という。僕が無視していると150ルピ−になる。
無視し続けていると100ルピ−になり、80、70、60、そしてついには50ルピ−にまでなった。
50ルピ−といったら日本円で80円ぐらいなものだ。
そんなんで靴が直せるなら、試しに直してもらってもいいかなと思ったが、それでも無視した。

「よし、では30ルピ−でいいだろう」
「30ルピ−?」
何たる値段。僕は驚いた。50ルピ−でこれ以上は無理だろうなと思っていたものが、さらに30ルピ−にまでなったのだ。
僕は本当に30ルピ−で靴を直してくれるのか念を押した。彼はその値段で直してやると自信満々だった。

30ルピ−といったら約50円くらいなもの。これで直るのなら試しにやらせてみようと思った。
なんだかとてもうさんくさい奴だが、まあ30ルピ−だったらいいだろう。
「わかった。30ルピ−でやってくれ」
彼は商売成立とあってうれしそうにその場に座り、小道具を広げはじめた。僕は壊れている靴を差し出す。
とれかかったゴムをどうやって布にくっつけるのだろうか。まさか替えのゴムを持っているわけではあるまい。

どうするのだろう、と興味深く眺めていると、彼はのみのような道具を出して、靴をごしごし力強くえぐっていた。
とれかかったゴムを完全に全部取ってしまおうというのである。それを見て不安に思った。
取れかかっていた部分はほんのちょっとだったのに、彼が全部引き剥がしてしまった。
それは直すどころか、余計悪化させているとしか思えなかった。

彼の引き剥がしさばきは見事だった。瞬く間にゴムを取り外してしまった。ああ、どうしてくれるんだ。
大丈夫なのだろうか、こいつに頼んで。でももうこいつにゴムをつけてもらうしかなくなってしまった。
彼は小道具の中からタコ糸のような太い糸を取り出してみせた。
「この特別の糸でゴムを布に縫い合わせれば完璧に直る」
おいおい、それじゃあ縫い目が見えてみっともないじゃないか。でももう剥がしちゃったんだからしょうがない。

「わかった。やってくれ」
「これをするには200ルピ−かかる」
「はあ、君いまさら何言ってんの。30ルピ−でやるって言っただろう。それが約束だろう」
幾分声を荒げて言う。この手のことはアジアではよくあることだ。ここですきをみせてはいけない。
強気の姿勢で立ち向かわない限り、つけこまれる恐れがある。
「わかった。150ルピ−にまけておこう」
「いいから早くやれ。30ルピ−で」
「わかった」

もうこれだから疲れる。いやこれを疲れると思ってはいけない。
これを楽しいと思わなければ、アジアの旅は楽しめないのだ。

強めの言葉で言われて幾分しょげながら、彼は小道具の中から今度はボンドを取り出してきた。
「30ルピ−ならばこのボンドでつける。150ルピ−出せば糸で縫い合わせるがどっちにするんだ」
なんてこった。ひどい選択だ。ボンドなんかじゃすぐ取れちゃうに決まってるだろう。
しかしかといって見た目の悪い縫い合わせをされたあげく、150ルピ−も払う気はない。
ゴムは完全に剥がれてしまっている。やっぱりこいつに頼まなきゃよかったと後悔してももう遅い。

考えた末に30ルピ−のボンドを選んだ。彼はしつこく150ルピ−の糸直しプランを勧めてきたが断った。
彼は残念そうにボンドでゴムをつけていった。
修理は終わった。ゴムを全部剥がされて、ボンドでつける。
これで30ルピ−なら自分でボンドを買ってきた方がましじゃないか。いちよ今のところは取れそうな気配はない。
しかしゴムが取れるのは時間の問題だろう。
彼はうれしそうに30ルピ−をもらうと、また次の獲物を狙って広場をうろつきはじめていた。

<トレッキング>
旅行会社の手先なのか、自分がガイドなのか、トレッキングに行こうと言ってくるものが実に多い。
カトマンズを歩いていて、トレッキングに行こうと声を掛けられない日はまずない。
この客引きの難点は、「行かない」と断っても、ネパ−ルではトレッキングをしなければ行くところなんかありはしないのだから、
「じゃあおまえは何をしているんだ。どこへ行くんだ」と問い詰められると答えに困ることである。
正直に、「何もせずカトマンズでぶらぶらしている」なんて言っても、わざわざ金をかけて旅行に来ているのに、
どこへも行かずぶらぶらしているなんてことは、彼らには到底納得がいかない答えなので、
「なぜだ。なんでだ」とさらに追求は厳しくなっていく。

ここでまたその理由を正直に説明するにはかなり大変なことである。
「日本は経済発展をしてお金持ちの国にはなったが、仕事ばかりで休みも自由な時間もなかなかとれない。
ごみごみしていて、毎日が忙しくて、あちこち飛び回り動き回らなくてはならない。
1分1秒を争って毎日の仕事に追われている。せっかくこうして異国へ旅行に来たので、
観光やトレッキングすることもあるけど、こうして何もしないでカトマンズでぶらぶらしていることが、
僕にとっては最高の時間なんだ。だから何もしていなくても、どこかへ行く予定がなくても、トレッキングには行かない」
と、とくとくと説明していくのである。

この答えにも不満の表情だが、各国にはそれぞれの特殊な事情がきっとあるのだろうぐらいは思ってくれると、
「また行くときがあったら俺に言ってくれ」で終われるのである。

このようにダルバ−ル広場に1時間も座っていれば、様々な人々の行動が観察できて、暇つぶしには最適である。
現地の人の中には、寺院の階段に昇って完全に寝転がって昼寝をしている人もいる。
他には、色とりどりのサリ−をまとい、中腹だけを出し、額の真ん中にオレンジ色の印をつけたネパ−ルの女性の姿があり、
カメラを首からぶら下げてきょろきょろしている観光客の姿があり、どこかで見かけたことのある日本人旅行者がいたり、
みやげを売るでもなく、客引きするでもなく、ただ座っているだけの人もいたりする。

様々な人たちがダルバ−ル広場で交錯し、そしてまた別々の道を歩んでいく。
そこには人間模様の縮図があり、それが飽きない理由なのだろう。

<ダルバール広場での高見遊山>
ダルバールはネパール語で「宮廷」の意味。王宮を中心とした広場である。
旧王宮や寺院などが集まる場所だけに、観光客も多く、それを目当てにした物売りたちが多いのだ。
寺院は高い基壇の上に建てられているので、その階段に登って壇上に腰を下ろし、
ダルバール広場の様相を上から眺めるのが、退屈しのぎになる。

いかさまサドゥーが滑稽な姿をさらして、傘を差しながら寺院の一角に腰を下ろし、
観光客を狙って写真を撮らせる商売をしていたり、
テンプーやリキシャーの客引きが観光客が観光をしおえたタイミングを見図らず、なりふりかまわず声を掛けていたりする。
観光客と物売りとの滑稽なやりとりを、高いところから見下ろしていると、
「しもじもの者はどうして生きているのだろうか」などと、まるで自分が王様になったかのような気分に浸れるが、
物売りたちは広場を歩く観光客だけでなく、腰を降ろしてのんびりしている人たちにも容赦なく声を掛けてくるから、
自分もその滑稽な舞台の登場人物として高見見物している立場からあっけなく降ろされてしまう。

カメラを首からぶらさげ、ガイドブック片手に広場の寺院を眺める短期旅行者たちには、
リキシャーやテンプー、時にはタクシーなど、すぐに移動するであろうことを見越してか、
長期旅行者と違って金を持っていると思っているのか、移動手段を生業とする連中が声を掛けてくる。
またサドゥーが「おい、写真をとらんか?」と声を掛けるのもこの手のタイプだ。
あやしいへんてこなものを持って、とにかく高く売りつけて儲けようとするみやげ屋も、この手の旅行者に声を掛ける。

一方、手に荷物を何も持たず、現地の安い服などをまとって、
暇そうに寺院の壇上で腰を降ろしているような長期旅行者たちには、ハッパ売りがひっきりなし声を掛けてくる。
カトマンズで沈みゆく生活を送っている気だるいバックパッカーたちに、ひとときの快楽をもたらすからなのだろうか。
しかしほんとの長期旅行者は大概こんな都会のど真ん中で質の悪くて高いハッパは買わない。
というのもカトマンズを離れて田舎村やトレッキングなどに出掛ければ、
マリファナを栽培している人たちからじかに安い値段で買えるからだ。
またボロボロになった靴を見てどこからともなく靴の修理屋が上まで登ってきて、
さんざん靴がひどい状態であることを教授された後に、「ではわたしがなおしてしんぜよう」と決めセリフを言うのだが、
バックパッカーたちにそんな話は通用しない。
靴を修理する金になんかお金をかけないのが彼らのポリシーでもあり、またある意味では、
ボロボロになった靴こそが長期に旅行しているという証でもあるから、
靴が壊れていることは百も承知だがわざとそのままにして直さないでいるという人々もいる。

またその一方で、ここで客引きの言うがままに、彼らの法外な値段で靴を修理してもらうより、
安い物価が自慢のこのカトマンズなら買い換えてしまった方が安くて手間がかからないというメリットもあるかもしれない。
あと寄ってくるのは闇両替屋だとかトレッキングにいかないかという客引きたちであるが、
両替は何度もしているので、すでにどこの店は一番レートが良いかを知っているので、用無しである。
またトレッキングに行かないかという誘いにも、ダルバール広場に座り込んでぼーとしているような旅行者は、
面倒くさくて行かないのがオチである。ネパールにはトレッキングを目的に来た旅行者が、
街角で声を掛けられてそこにトレッキングに行くよりは、自分で行きたい場所を事前に考えていて、
そこに旅行会社なりを通していったりするから、街角トレッキング客引きも用無しである。

こうしてあらゆる面から客引きたちは用無しなのであるが、ダルバール広場にいる限り声を掛けられるのは宿命であり、
彼らとのやりとりが物見遊山より大きな退屈しのぎになるのだから、まあ本末転倒といえばそういえなくもない。