桜井和寿ヒストリー(2009.1.19) ミスチルトップ かさこワールド

桜井さんはどんな学生だったのか。
インディーズ時代はどうだったのか。
デビューからブレイクに至るまでの経緯は?!

ミスチル桜井原点ともいうべき、
子供時代からデビューそしてブレイクに至るまでの過程を、
「ROCKIN'ON JAPAN1995年2月号:桜井和寿インタビュー」より、
内容を要約してご紹介します。

・・・・・
1994年9月発売のアルバム「Atomic Heart」が、
200万枚のセールスを記録したタイミングでのインタビュー。

インタビューは桜井さんの子供の頃についての質問からはじまる。
音楽そのものより、彗星のように現れ、
ミスチル現象を巻き起こしている、
ボーカル桜井和寿とは何者なのかといった興味が、
当時あったに違いない。

●小学校時代について
勉強はできなかったが、親は勉強については文句を言わず、
教育方針は、「何か一つみんなより自信を持って
優れていると言えるようなものを身につけろ」ということだけ。
運動神経が良かった桜井さんは体育だけは一生懸命やっていた。

小学校入学当初、体にイボが100個ぐらいあって、
「イボ野郎!」とかからかわれたけど、
「みんなから注目される、その状態が気持ちいい」
と桜井さんは思っていた。

音楽は女がやるものだと思い込んでいて、
音楽の時間に絶対に歌わない姿勢を貫き、
音楽の先生から往復ビンタ20発ぐらいくらったけど、
それでも歌わなかったという。

●中学校時代について
悪いグループに入っていたが、
「万引きしてこいよ」など命令する番長が嫌で、
なんとかグループを抜けるために、
交番に行き「僕は万引きをしております」といい、
それで家に知られて、悪グループから抜けた。

その頃にギターを始めた。
友達のお兄さんがエレキギターを持っていて、
「かっこいいなあ」と思った。
桜井さんのお姉さんがアリスが好きで、
フォークギターを買ったけど、
やっていなかったので、ギターをもらった。

フォークギターで「禁じられた遊び」を単音で
弾いていたら、お姉さんがバカにして、
「あんた天才じゃないの?」と言ったのを真に受けた。

目立ちたがり屋だった桜井さんは、
スポーツ→悪グループ→ギターへと変わっていった。

山形の親戚が浜田省吾さんや甲斐バンドが好きで、
「なんか、音楽ってかっこいいなあ」と思った。
「自分も浜田省吾とか甲斐バンドみたいになりたい」

高校受験を考える中3になった時、
軽音楽部がある高校を選んで受験した。

●高校時代について
高校に入ってすぐにできた彼女がキーボード、
中川さんがベース、田原さんがギター、
桜井さんがギター&ボーカルでバンドを組んだ。

桜井さんが彼女ができたことですごく自信になり、
自分の性格や考え方がガラっと変わったという。
「音楽と彼女の二つのことだけを一生懸命やった」

高校1年の時から「プロを目指してやって行こう!」
と思い、オーディションにテープを送っていた。

「音を出す快楽とかそういう事じゃなくて、
プロになるために『じゃ何をすべきか?』
という事をすごく考えながらやってたんですね」

「僕がプロになるのにあと必要な事は
やっぱり恵まれない環境なんだなっつうか(笑)」
「だから貧乏に憧れたし、家族関係が複雑な家庭に憧れたし(笑)」

桜井さんと田原さんが、
彼女めぐって三角関係になり、
「田原は“女を取るかバンドを取るか”」みたいになったけど、
「女ごときの事でバンドをやめることはない」って、
桜井さんが田原さんに言った。
その仲介役みたいたのに中川さんがなった。

この事件でしばらく桜井さんと田原さんが、
遠慮しあうような形で仲がしっくりいかなかった時代も。

●高校卒業後のライブ活動について
「みんなは普通、コピー・バンドとかをやってたんだけど。
僕らはライブやるごとに、2曲とか3曲ずつ
『とにかくオリジナルを増やしていこう』ってやってて」

レコード会社に声かけられたこともあったが、
「バンドとしての演奏が全然固まっていない時で、
桜井和寿の詞とか曲がいいっていうことで、
ミスターチルドレンが評価されるのがすごいヤだった」
実際、あるレコード会社からは、
バンドでやろうという話から、
ソロでやろうという話にすりかわり、
「みんなの仲でレコード会社に対して警戒心を強く」していた。

「やっぱりソロシンガーがダサいなあっつうのがあったんですよ」

現所属レコード会社であるトイズファクトリーから声がかかった頃、
「バンドとしてもう一回音楽っていうものを見つめ直そうよ」と、
3ヵ月ぐらい休みをとった。
デビュー前のアマチュアバンドが、
音楽活動を見つめ直すために、休養宣言していたという、
この頃からの恐るべきプロ意識。

3ヵ月の休養前と後を見たトイズファクトリーの人が、
「ガラっと変わってすごく良くなった」と評価してくれた。

「気持ちがナチュラルな時に感動できるっていう、
その普遍性みたいな魅力」を目指す。

3ヵ月の休みの間、「心をナチュラルにしたい」と思い、
ラジオをよく聴いていた桜井さん。
森高千里の「私がおばさんになっても」を聴いた時に、涙が出た。

「自分がこだわってきたロックのスタイルだとか
そういうものって、すごくくだらなかったんじゃないかな」
「歌やメロディーや言葉の持つすごさみたいなものを、
とにかく自分の中で作ってみたいっていうか、
探してみたいっていうか」

「カッコつけるのをやめたっていうか。
ロックであるこだわりとか
ギター・サウンドのかっこよさとか、そういうものよりも、
やっぱもっと本質っていうか、
外見よりも心の中を覗いてみるっていうか、
そういう志向だと思うんですけどね」

ロックからポップザウルスへと、
大きく方向転換した原点は、
デビュー前の活動休止期間になされたものだった。

・・・・・
●ファーストアルバム「Everything」(1992.5.10発売)について
バンドブームとの差別化して、
ミスターチルドレンを見せることが課題。
ネオアコ・ブームにある種のっかる。

小林武史プロデューサーとの出会い
「曲の事に関して『こんなにシビアな人は鬼か!』と思ったことも」
「一回自分の中で作り上げちゃったメロディーってのを
壊すのがすごく難しかった」

「『ひょっとしたらこうやってプロになって
ダメになって行くかもしれない』なんて思って」いたことも。

「『100万枚以上売るんだ!』っていうのが心の中にあって」

●2ndアルバム「KIND OF LOVE」(1992.12.1発売)について
「メンバーには申し訳ないなっていう気持ちがあったけど、
曲を作る段階からバンドと僕をまず離して、
僕と小林さんとの作業で曲を作っていって」

大ヒットを狙う桜井さんは、
いい曲を作っているという自信はあったが、
ブレイクするきっかけはタイアップにあると考え、
レコード会社に「タイアップ取ってくれ」とも言ったという。

タイアップの世の中だった時代、
「『だったら15秒の中で俺も勝負してやる』」
と、秒数測って曲を書き、
15秒の中で活きる曲をプールしておいたという。

●3rdアルバム「Versus」(1993.9.1発売)
前作アルバム路線を踏襲する方が、
売れるんじゃないかと思った桜井さんに対して、
小林さんが別な面を見せておいた方が、
後々のミスチルにとって得だとのことから、
アンダーグラウンド的な匂いのするアルバムになった。

●ブレイクするきっかけとなった、
4thシングル「CROSS ROAD」(1993.11.10発売)について

「ドラマをプロデュースする的な気持ちで曲を作ってましたね」

売れると思った?という質問に対して、
「もう100万だって思いました」と桜井さんは答える。
「絶対に100万枚売れると思ってやってる、
そういうことをイメージしながらやってるから、
そういう状況になってもべつにどうって事ないというか」

「『今はミスターチルドレンが好き』なんつってる人がいても、
どうせ飽きるんだったら、
新しいとこ(今までと違う年代のリスナー)を目がけてやった方が
いいじゃんっていうのは思いますよね」

「やっぱり消費されて行くのはしょうがないし、
でも誰かの気持ちの中に残るだろうっていう風には
信じてやってますけど」

この頃から音楽を消費と捉えている。
それはそれから10年以上も先に発売するアルバム、
「SUPERMARKET FANTASY」でも変わらなかった。

しかし100万枚を目指してそれが達成された結果、
「なぜ俺は音楽を続けてきたんだろう」と思い悩む時期も。

それをサッカーのカズ選手にたとえて、
桜井さんはこういう風に気持ちを切り替えた。
自分たちは音楽業界でレギュラー選手になったばかり。
レギュラーになれたところで、
「ああ、もうほかにやる事ないや」って思うんじゃなくて、
絶好調の自分と常に闘っていきたいと。

カズ選手は常に「絶好調の時のカズなら」と、
比較されるのを聞いて思ったという。

●5thシングル「innocent world」(1994.6.1発売)について
はじめは単純なラブストーリーの歌詞だった。
「ラブソングこそ最大公約数の心に一番浸透していけるんじゃないか」と。

そこで小林さんが、今、ミスチルが注目されている中で、
誰もが歌えるラブソングじゃなく、
桜井和寿という24歳の一人の男が、
日本で生活している中でしか歌えない歌詞を書いてみたらとアドバイス。

今まで「僕っていう人間の顔が見えない方がいい、
その方が聴いているお客さんは感動を得られるはずだと思っていた」が、
小林さんがうまく背中を押してくれて、楽になった。

●4thアルバム「Atomic Heart」(1994.9.1発売)について
「とにかく音を刺激的に刺激的にしたいっていうのがあった」

「『CROSS ROAD』と『innocent world』の部分の
ミスターチルドレンのイメージっていうのが、
どうせ長続きしないんだろうなって感じで(笑)」

「『あ、これはミスターチルドレンの音ね』って
言われちゃうのはとにかくつまらないじゃないですか」

●7thシングル「everybody goes−秩序のない現代にドロップキック−」
(1994.12.12発売)について


「一回こういう風に売れちゃったバンドが、
『everybody goes』みたいなああいう曲を出して
どういう風に評価されるか」

1994.11.10発売の6thシングル「Tomorrow never knows」の
カップリング曲予定だったが、
愛着がわき、1ヵ月遅れのシングルとして発売することになった。

●雑誌に掲載の写真
サングラスをかけた桜井さんの写真、
公衆電話をかけた姿の写真、
シャワールームで上半身裸でひげをそっている写真、
マクドナルドのセットを食べている写真など、
今から振り返ると珍しい、貴重なものばかり。


ブレイクしたミスチル絶頂期の桜井さんの言葉の節々からは、
今の活動の原点ともなるべき言葉が散りばめられ、
「売れる」ということ以外の、
音楽活動に対する接し方みたいなものは、
昔と変わってないんだなと再認識した。